地壇は方沢壇とも呼ばれ、明清時代の皇帝が地の神を祀った所である。天壇は、天の神を祀る場所で、「天は円、地は方」という古代思想に基づき地壇は方形が基調とされている。
明の嘉靖9年(1530年)に建てられ、方沢壇、皇祗室、神庫、祭器庫、方沢亭、斎宮、神馬殿などの建物を備えた。中華民国1925年に市民に開放され、京兆公園と名づけられ、後、名称を市民公園に変更し、1957年に今の地壇公園と改名され。1981年から修繕され、1984年再オープン以後、現在の地壇公園の姿となった。
地壇公園は、北京市民にとっては春節の廟会でお馴染の場所である。廟会は例年、旧暦の除夕から旧正月の7日まで行われ、園内には北京の伝統的な食べ物の屋台が並び、民間芸能の出し物で賑わう。
この日は「2009北京春季本市」が行われていました。
広い公園の中の道には全て本の露天が並んでいます。
園内にどんな建物があるのか!?見つけられませんでした。
色んな本が格安で並んでいます。
買って帰りたい本が沢山ありましたが、本は重いので残念ながら諦めました。
遊び好きの中国人はこんな所でも中国将棋に興じています。
写真には撮れませんでしたが、ひっきりなしに客が行き交う中、ある店の店員のお姉さんは椅子に横になりしっかりとお昼寝タイムでした。
中国人は食べたい時に食べ、遊びたい時に遊び、眠りたい時には寝るのです!
園内では本のほかに食べ物も売っていましたし、書画のオークション等も行われていました。
そこで私は掘り出し物を見つけました。 リビングのソファーのクッションが未だに冬物なのが気になっていました。
素敵なキルトが目に入ったので、値段を尋ねると1枚25元と言います。
「ではお姉さん、5枚で100元ね!」 格安でゲットです。
散々歩き回って疲れたところで、時間が来ました。
17:40発の飛行機に乗るために北京空港へと向います。
北京の孔子廟は1302年に創建した孔子を祭った廟で、曲阜にある孔子廟に次ぐ規模。フビライ・ハンが漢族の思想を統制し、懐柔するために造らせた。元代以後も時代を経るにつれ次々と拡張され、現在に至っている。庭には元、明、清、3代の科挙合格者名簿の石碑が並んでいて、漢族以外にも満州族やモンゴル族の名前も彫られている。
入ると直ぐに孔子様が出迎えて下さいました。
次には綺麗な門がありました。
現在は、孔子廟は首都博物館となり北京の歴史を簡単に学ぶことの出来る場所となっています。此処にも素敵な古木がありました。
祭孔堂です
早速孫の舞の為に高校受験の合格祈願をしました。
日本の絵馬に似ていますが、赤い札に名前を書いて、祈願された石を貰って帰ります。
舞ちゃん、ここに吊るしておきましたよ!
隣接する国子監は元・明・清の時代、教育を管理する最高行政機関であり、国立の最高学府でもあり、現在は首都図書館として利用されています。
次は最後の訪問地”地壇公園”です。
公園近くの素敵なレストランで昼食をとりました。
少し疲れたので軽めにと思って注文したお粥が大変美味しかったです。
このお粥を撮影した所で、店内の撮影は禁止ですと注意されました!
続く
第五日目
いよいよ最後の日になりました。
今日は雍和宮と孔子廟、地壇公園に行きます。
雍和宮は中国で最も大きいチベット仏教寺院で、都市の北東部にあります。古代のチベット仏教寺院は、清王朝時代の1694年に建造され、当初は雍正帝の邸宅として建てられました。雍正帝即位後に紫禁城へ移った時の、1744年にこの邸宅をチベット仏教寺院としました。1981年には一般開放され、現在では国内から僧や信者が訪れます。ダライ・ラマが贈った多数の文化的な名残と肖像を展示室で見ることができます。高さ18メートルの「弥勒像」は一本の白檀の木に彫られた仏像など多数の有名な仏像を見ることが出来ます。
先ず入場券を買って、この煌びやかなゲートをくぐります。
門の向こうからはもうお線香のとても良い香りが漂ってきます。
中では沢山の人が色んな方法で祈っていました。
このお二人はこの後地面にひれ伏してお祈りします。
このおじさんは火の付いたお線香を掲げて、前後左右にお祈りを捧げます。
勿論室内は撮影禁止です。 カメラにこの方だけが写っていました!
敷地内にはチベット仏教に関する物がいろいろ置かれてありました。
沢山置いてあった石像の中でこれが一番不思議な形を・・・。
体は亀ですが、頭はどうしても獅子にしか見えません。
宮の中をとても素敵な僧衣を着たお坊さんが働いていました。
僧衣の色は濃いこげ茶です。 それに真っ赤な帯を巻いているのですから、凄く格好良いでしょう!?
これはゴミ箱です。 北京に来て一番感動した物です。
宮の外には門前町というのでしょうか?このようにお線香やろうそくを売っているお店が沢山並んでいました。
次は”孔子廟”に向います。 続く
北京市内の地図をよく見ると、故宮を囲んで4つ、名前に “壇” の付く公園があります。東に 「日壇」、西に 「月壇」、南に 「天壇」、北に 「土壇」。 北京には地球を取り巻くエレメント(要素)の名が頭に付いた4つの “壇” が東西南北に配置されています。この “壇” とは皇帝が祈祷する場所を意味し(毎年豊作を祈った)、昔は “皇帝の庭” とも呼ばれていましたが、今では4ヶ所とも公園になっています。 中でも、自分を天子として天帝を祭る皇帝にとって最も重要だったのが、これら壇廟建築でも最も大規模な「天壇」でした。 明の永楽18(1420)年に建設されたこの場所は、現在の北京でもユネスコ世界遺産に指定されたました。
円錐状の屋根が美しい”祈年殿”
中国の宇宙観に基づいて作られた建造物は全て円形をしています。
屋根の無い祈祷所もあり、上は右の写真のようになっていました。
中央が盛り上がっているのは何か意味でもあるのでしょうが・・・。
此処にも何百年の歴史を刻んできた木々が沢山いました。
このような木を見ると何だか落ち着いて、元気が湧いてきます。
これはオリンピック効果でしょうか、他にも綺麗にデザインされた花壇があちこちにみられました。
”王府井”に帰ってきました。
先日M夫妻に伺っていた屋台街にやって来ました。
ここで夕食に何かを食べようと思ったのですが、やはり私たちは勇気が出ませんでした。
ご覧のように美味しそうな食べ物が一杯並んでいるのですよ!
それでもと、夫は大きなイチゴを一本買って食べていました。
結局私たちは近くのお店で美味しい餃子を食べました。
暗くなった屋台街は大勢の観光客でとても賑わっていました。
後で聞いた話ですが、同じ時に北京に行った韓国人のクラスメート(女)は串刺しにされたまだ動いている”虫”を食べたそうです。 美味しかったと言ってました。
因みに「イチゴ」は 「草莓 caomei(ツァオメイ)」と言います。
第四日目は“頤和園“と”天壇公園”に行きます。
頤和園は中国の名園のひとつに数えられる。歴代の皇帝の行宮庭園であった。造園は十二世紀なかば。金代に始まるが、離宮として整ったのは、清の乾隆帝以後のことである。
1860年に英仏連合軍によって破壊されたが、光緒14年(1888)に贅を尽くした暮らしを続けた西太后が還暦祝いに海軍の経費を流用して改修して現在名に改め、避暑地とした。総面積は290ヘクタールで、そのうち4分の3は昆明湖の水面である。
頤和園は、西太后や光緒帝など清代末期の支配者のゆかりの地で、近代史との関係が深く、当時の重大な歴史的事件の痕跡を多数留める。辛亥革命後、1914年に一般公開され、1924年に正式に公園となった。
敷地の大半を占めるという”昆明湖”の前で。
向こうに見えるのは湖を作る時に出た土で作った”万寿山”と”仏香閣”
西太后の居室と船着場をつなぐ長廊。
沢山の美しい絵が描かれています。 同じ物は1枚も無いとか・・・。
西太后が政務を執ったという仁寿殿
昆明湖には石造りの船が浮かべてありました。
私たちは本物の船に乗って、南から西へ、そして北へと見て回りました。
船着場近くの建物
湖畔では此処で憩う沢山の中国人老夫婦を見かけました。
此処には西太后の贅沢な持ち物や調度品が沢山展示されてありましたが、勿論撮影は禁止です。
湖畔のレストランで昼食をとった後、私たちは”天壇公園”へと向います。
続く
京劇が上演される北京湖広会館に着いたのは5時過ぎでした。
会場時間まで間があるので切符を買った後、付近を散策しました。
一人280元は大連の80元に比べるととても高いようです。 何か違うのでしょうか!?
広場の隅で散髪している人たちがいました。
珍しい理髪店かと思ったら、理容学校の学生が実習の為に無料で散髪をしているとのことでした。
夫はいつも私が散髪をしているので、「やってもらったら!?」と勧めたのですが、こういうことの苦手な夫はガンとして応じませんでした。
劇場と言ってもとても小さく、しかし、なかなか趣のある建物です。
博物館に展示してある写真に綺麗な女形の姿がありました。
誰かに似ているなぁ!と思って眺めていると、係りの女性が「玉三郎」だと教えてくれました。
そう言えば、数年前、玉三郎が京劇にチャレンジしたというニュースを耳にしました。
その時に演じた劇場が此処だったのですね!
いよいよ開演です。
内容は観光客用に編集された物を演じていたのか、チャンバラや軽業のような物が多く、”歌舞伎好き”の私にとっては今一物足りませんでした。
私はきちんと見たかったので、日本語の説明器をかりました。
夫は音声と字幕で理解しているようでした。
一テーブルに8人座れるのですが、私たちは二人で、おつまみ付きお茶飲み放題でゆっくり鑑賞できました。(おつまみがとても美味しかったです)
今日は「端午節」で休日です。 私たちは今日から4連休になります。
日本で言う「端午の節句」と同じかと思ったら、由来が全く違います。
BC340~278 楚の国の国王の側近に”屈原”と言う政治家(詩人)がいたが、陰謀により国を追われ故国に帰る途中”べきら川”に身を投じる。 楚の国民は小船で川へ行きたいこをうって魚を脅し、粽を投げ入れ魚が屈原の死体を食べないようにして、その事を記念して年中行事とした。
その日には”ペーロン競争”し、”ちまき”を食べる風習ができた。
それらの風習は病気や災厄から逃れる宮中行事となり、三国時代 魏のくににより旧暦5月5日に”端午節”に定めた。
現在は急に暑くなるこの時期、健康を意識する上で”菖蒲””よもぎ””ガジュマロ”の葉を門に刺し健康を祈願している。
一昨日の夜、我が家でフーシャンをしている学生さんが3人訪ねてきました。
彼女たちは「端午節おめでとうございます!」と言って、上記のものを差し出しました。 沢山のちまきと二つのお守りが入っていました。
彼女たちは私たち夫婦の健康を祈ってくれたのでした。 感謝です!!!
また、クラスでは担任の老師が手作りのちまきを持ってきて、私たちに一つづつ下さいました。 休み時間に皆でわいわい言いながら頂きました。(形は日本のちまきの様ではなく、”台湾おこわ”のようでした。 それに砂糖をつけて食べます)
いつもながら老師のお心遣いには大感激です。(他所のクラスではこんな事は全く無いようです)
日本の端午の節句の由来も調べなくてはなりませんね。
因みに「ちまき」は 「粽子 zongzi(ゾンズ)」と言います。
第三日目
今日は念願の”万里の長城”です。
自力でホテルからタクシーで北京北駅へ、汽車で八達嶺駅まで1時間ちょっと。駅から10数分歩いてやっと到着です。
此処でビックリ!着いたそうそう同じ学院の学生にばったり。
ここでも沢山舞っている木の綿毛に要注意!と、マスクをしたのは私たち4人たけでした。
月から見える唯一の建築構造物と言われる万里の長城。グレートウォールとしてユネスコの世界遺産の筆頭級にあげられ、いな中国を代表する最大の史的観光スポットである。
八達嶺付近の長城は地形を利用し、高さ7.5m、厚さ約4mで、上部は騎馬が五列、兵士が十列で進むことができる幅をもつ。防御上の必要から、尾根の高所、城壁の曲り角、重要な地点に堡塁式の城台を設けた。階上と階下に分かれ、階上には四面に鋸壁をめぐらし、階下は軍隊の駐屯や武器の保管ができるように空洞とした。
八達嶺では、入り口を入ると左右どちらにでも登れる。左右それぞれ「男坂」「女坂」と呼び習わされ、坂の角度に違いがある。右の「女坂」の方が一般的かと思われるが、こちらも四つ目の城楼までくれば、山を縫って長城が延々と連なる様が見える。
私たちが先ず登ったのは”男坂”。
私のバックに見えるのが”女坂”です。一番奥に見えるのが”北八楼”あたりでしょうか。大分上まで来ましたが、昨日の居庸関に比べて、階段ではなく石畳のような道だったので随分登りやすかったです。
悲しい事に城壁の至る所にこのような落書きが・・・。
日本人の名前は見当たりませんでしたが、どこかにあるのかも。
階下です。 此処で兵士も休息を取ったのでしょうか。
ヴュースポットで夫と記念撮影を! 言葉の通じない外人さんに御願いしたので余計な方が一人写ってました。
下に下りて来ると、あちこちで疲れを休めている人を見かけました。
こんなところでも・・・・・。
沢山のお土産やさんもあって客引きをしていました。
でも、不思議な事に中国では食べ物の土産品は見当たりません。
日本だと”長城まんじゅう”とか”長城せんべい”とか直ぐに作りますよね!
衛生管理に問題があるのかもしれません。
ところでこの写真を見て変だなぁ!?と思われませんか?
そうなんです。 イスに座って食事をしながら客に応対しているのが店員さんです。
中国では普通のお店では店員が物を食べながら応対するのは平気です。
私はこれだけはどうしても慣れることは出来ません。 何とかして貰いたいものです。
「”長城”を見ずして、中国を語ることなかれ」の言葉通り、本当に中国の大きさ、歴史の深さを実感しました。 無理をして、来て良かったと思います。 大満足!
これから私たちは”京劇”見物の為に北京に戻ります。 続く