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雨宮処凛 生きづらい女子たちへ 「47歳、女」が実感するこの国のエイジズムと「若さ」の搾取

2022年04月05日 | 生活

Imidas連載コラム 2022/04/05

 今年(2022年)の1月、47歳になった。

ということを口にすると、「いいんだよ、年は言わなくて」と優しげな感じで言われたりする。

 いつからか、私はまったく気にしてないのに、私以外の誰かが勝手に私の年齢を隠す。

 例えばイベントに出て紹介される時など、だいぶ年上の人に「雨宮さんは若くしていろいろな社会問題に精通していて、って若いって言ってももう40代なんですけど、あ、四十何歳かというのは、それは秘密なんですが……」などと言われるという具合だ。

 そういうのを見ていると、「若くない」ということに、どれほどこの国の人々はネガティブなイメージを刷り込まれているのだろうと思う。

 もともと私はこの国の「若さ信仰」に多大な違和感を持っており、20代の頃は一刻も早く30代になりたいと願っていた。若くなくなければ、セクハラも減るし失礼なことをされることもなくなるし、防衛能力も上がってくるしで生きやすくなる気がしていたからだ。予想は当たり、年を重ねるごとに生きづらさは確実に減ってきている。

 理由のひとつには、「自分のトリセツ」の解読がうまくなったということもあるだろう。10代、20代の頃、私は精神的にかなり不安定でリストカットなどを繰り返し、自殺願望に苛まれていた。が、そんな経緯から、「自分を死なせない方法」「自分の機嫌をとるノウハウ」の研究・開発にいそしみ、今では「この落ち込みには女友達との飲酒」「このモヤモヤには“推し”の動画」など、自ら的確な対策を打つことができるようになったのだ。「うーん、今日は打ち合わせで微妙に傷つくこと言われたから、ちょっと高めの肉でも食わせとくか」という感じだ。

 トリセツはメンタル面だけではない。私の場合、若い頃は重度の貧血持ちの上、アレルギー体質でとにかく子どもの頃からずっと体調が悪かった。それが40代にしてやっと楽になってきたのだ。理由は、何十年にもわたる紆余曲折の果てに、合う薬や治療法がようやく定まってきたから。ちなみにこの歳になると同世代から「若い頃と違って体力が持たない」「疲れやすい」などとよく聞くが、若い頃、ずーっと体調が悪かった私としては、今がもっとも体調がいいのである。

 このように、私としては「47歳最高!」という気分なのだが、なぜか世間には「加齢」という、時を止める特殊能力でもない限り誰にも抗えないことを「残念なこと」と受け取る人が多い。

 例えば2、3年前、「おめでとう」の一言が欲しくて「今日私、誕生日なんだ~」と知人に告げた時。相手は苦み走った顔をし、「そんな年だともうめでたくもなんともないよね……」と勝手に「祝う価値なし」判定を下したのだった。ここまで露骨じゃなくても、世間には「若くない女はそれを恥じ、年齢を隠したいに決まってる」という決めつけが存在する。

 が、振り返れば、「もう若くない」みたいな認定って、二十歳(はたち)頃からされてないか? 10代の頃は「二十歳になったらババア」「もう終わり」なんて散々言われ、二十歳を過ぎれば「30過ぎれば本当にアウト」などという根拠なき脅迫に晒されてきた。

 しかし、若さのみが価値とされ、ある年齢になった瞬間に価値なしとジャッジするのは誰? と思って、気づいた。それは若さを崇める一部のおっさんなのだと。そんなおっさんに「価値なし」とジャッジされた方がずっと生きやすいに決まってる。そう思った瞬間、私は「若さ信仰」から解放された。

 そんな「女業界」で47年も生きてれば、年齢で一喜一憂するのがいかに馬鹿馬鹿しいか、身に沁みて知っている。その上、現在は「人生100年」時代。ということは、47歳なんてまだ折り返し地点手前のひよっこである。それなのに二十歳くらいから「もう若くない」とか言われるなんて、人生の8割をババア呼ばわりされて生きろってことじゃないか。

 さて、こんなことを突然書いたのは、このあたりのことについて、一度ちゃんと書いておかなければと思ったからだ。

 例えば私が1冊目の本を出し、物書きとしてデビューしたのは25歳。その時、いろんな人に言われたのは、「若い女の書き手ってだけで需要はいくらでもあるから」ということだった。

 とにかく世間は若い女が何を考えているのか、どんな日常を送っているのか、そういうことに興味津々なんだからそういうことを書けばいい。エッチな話なんかあると最高。そうすれば仕事はいくらでもある――。業界のおじさんたちは、見事に同じことを言った。

 一言で言って、キモかった。なので、そういう依頼はすべて断った。そもそも「若い女」と言っても、20代前半の頃は右翼団体に入っていて、初の海外旅行は北朝鮮という、「若い女」の代表でもなんでもないやさぐれた人間である。

 が、断ったもっとも大きな理由は、そういう売り方をしていけば、30歳になった途端、仕事がなくなることがわかりきっていたからだ。私にこの頃持ちかけられ、断った多くの仕事が「若い女」という記号だけが必要なものだった。記号でしか必要とされないものは、記号がなくなった瞬間、びっくりするほど鮮やかに切り捨てられる。

 もうひとつ、覚えているのは20代の頃、複数の雑誌から「脱ぎ」を持ちかけられたことだ。しかも、正式に企画書を持ってきてとかじゃなく、たまたま会ったついでに「あ、そうだ、脱がない?」という気軽さで。

 そんなことを言うおっさんは大抵、人の全身をニヤニヤしながら眺め回し、なんでもないことのようにそう言うのだった。上司が私に「脱がない?」と言った途端、男性部下たちがすごい勢いで私を口説いてきたこともあった。その執拗さは「密室で契約書にサインするまで帰さないマルチ商法」のようだった。今思い出しても悔しくて泣けてくるが、そんな「脱げハラ」も30歳になった途端になくなった。

 そうして私は32歳で、『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版、のちにちくま文庫)を出版。07年のことだが、これが大きな話題となり、JCJ賞も受賞するなど評価して頂いた。この翌年にリーマンショックが起こり、秋葉原で派遣社員による無差別殺傷事件が起き、年末、派遣切りに遭った人たちが日比谷公園の「年越し派遣村」に集まり、この国に広がる貧困が「再発見」された。このようなことが重なり、若年層の貧困問題を書いた私は様々なメディアで発言を求められることが増え、戸惑いながらも多くのメディアに登場した。

 その時も、いろんな人から言われた。

「あなたが若くて女だから、メディアはもてはやすのだ」と。「常にメディアは女で20~30代で社会的な発言をする人を求めていて、今、たまたまあなたがそこの位置にいるのだ」と。そうして「あと数年して、40代になったらその仕事はなくなる」と。

 それはある意味、当たっていた。当時から、自覚もあった。なぜ、貧困問題がメインテーマの私に関係ない問題でのコメントを求めるのだろう? そういう戸惑いは常に感じていたし、たまたまその「枠」にいるのだろうと思っていた。そうして40代になってから、その手の仕事は激減した。

 もちろん、年齢以外のいろいろな要素も絡まってはいるのだろう。だけど、なんとなくモヤモヤする自分もいる。社会問題を語る30代の女として求められる自分と、下ネタありの赤裸々エッセイや脱ぐことを求められる20代だった自分とは、突き詰めると同じような問題に直面している気がしないでもないからだ。同時に、なんとなく、どちらも「若さ」の搾取という気もする。

 そして社会問題を語る若い女性枠には、常に入れ替わり若い女性が座っている。もちろん、素晴らしい業績や才能があり、活動している人々だ。しかし、その枠に座った途端、「若い女」枠として消費されてしまうのではないかと、他人事ながら、勝手にヒヤヒヤしてもいる。

 さて、それではメディアなどで発言する40代後半の女性に求められることは何か。

 結婚していたり子どもがいたりすれば、その手の話を求められることが多いだろう。40代後半の男性にそんな話を求めることは滅多にないのに。

 一方、未婚、既婚を問わず40代後半女性が求められるのは「更年期話」だ。最近、同世代や少し上の女性がその話題でメディアに登場しているのを多く見かける。私が20代の頃、更年期と言えば木の実ナナ氏の独占市場だったのだが(木の実ナナ氏は女優で、更年期の過酷な実態を様々なメディアで発信していた)、今や同世代がこのテーマを語っているわけだ。

 もちろん、重要な情報だと思うのだが、40代=更年期というのもステレオタイプすぎないだろうか。

 なぜなら「40代、50代でめちゃくちゃ充実したセックスライフを送ってます」という人もいるはずで、そんなテーマにだって需要はありそうだ。

 それだけではない。人生100年時代というなら、「90歳からの恋愛・セックス」なんかにもみんな興味があるはずだ。文字通り人生最後の恋なのだから盛り上がるに決まってるし、自分に資産があれば「相続」という問題も絡んでくる。が、相手も高齢であれば、どちらが先に天に召されるかはわからない。そうなったら思い切り年下の人と付き合って資産を残すのがいいのか。しかし、それだと保険金殺人なんかが起こりそうだ。「保険金殺人をしない年下恋人の見つけ方」なんて情報にも需要がありそうではないか。

 それなのに、90代を対象としたマーケットには介護用品くらいしかない。

 なんだかそれって勿体ない。40代後半女性が更年期一色ではないように、90代だっていろんな欲望やニーズがあるはずだ。これほど「多様性」と言われる時代なのに、年齢による決めつけは人生を貧しくさせている。

 最近、ルッキズム(外見至上主義)という言葉は知られるようになり、問題視されるようにもなってきた。しかし、年齢による偏見や差別を意味する「エイジズム」はまだそれほど問題視されていないように感じる。このあたりは今後、どうなっていくだろう。

 さて、あと3年で私は50歳だ。半世紀記念として、「もうその年だからめでたくない」なんて言葉を蹴散らすよう、盛大に祝いたいと思っている。

 世の中には、きんさんぎんさんみたいに100歳でブレイクしてCDまで出した人だっている(わからない人は、昭和生まれに聞いてみよう)。

 そう思うと、なんだかいろいろ楽しみになる思いもありつつ、「人生、長い……」とため息も込み上げるし、老後のお金が急に心配にもなってくる。


 そうだね!わたしも十把一絡げに「ジイジ」と呼ばれることが嫌いである。「ジイジ」の自覚がないのである。

 今日も10度を超える良い天氣に。融雪も進み積雪30cm。

セッセと雪割りしたハウス内は明日で無くなるかな?

雪の下からチャイブが出てきました。