マガジン92021年1月20日
コロナ禍で、多くの人が生活困窮に直面している。
仕事を失い、貯金も尽き、家賃やライフラインの滞納も始まっているという人も多いだろう。そんな時、頭にちらつくのは「生活保護」という言葉だと思う。自力で頑張りたいけれど、友人知人から借金もしていて、売れるものはすべて売って、万策尽きている状態。迷い、悩みながら勇気を振り絞って訪れた役所の窓口で、「大変でしたね」とねぎらいの言葉をかけられ、思わず涙した人もいる。一方で、冷たい対応をされたと憤る人もいる。
そんな生活保護を利用する上で、大きなハードルとなっているのが「扶養照会」だ。
扶養照会とは、親族に連絡が行くこと。生活保護の申請をすると、親や兄弟、子どものもとに「あなたの息子さん(きょうだい、親など)が生活保護の申請に来ているが面倒をみることはできないか」と連絡が行くのだ。
これがどうしても嫌、ということで生活保護を利用せずにいる人を、少なくない数、知っている。仕事と住まいを失った人に生活保護申請を提案したところ、「受けてみるしかないかな」と前向きだったものの、「扶養照会」の説明した途端に顔色を変え、「無理です」と言われたことも一度や二度ではない。
もし、自分だったら。
そう考えると、私も嫌だ。現在、親や兄弟との関係が悪くない私でもそう思うのだ。関係が複雑だったりしたら、その抵抗感は何倍にもなるだろう。
ちなみに扶養照会は、されない場合もある。厚労省は、DVや虐待があった場合は問い合わせをしないこと、また20年以上音信不通、親族が70歳以上など明らかに扶養が見込めない場合は問い合わせをしなくていいという通知を出している。が、これを守っていない自治体もあるのが現実なので、虐待を受けていた場合などはその事実を強調し、「扶養照会は絶対にしないでください」と念を押そう。
しかし、中には厚労省の通知を守らないどころか、「生活保護申請をするなら親族に連絡する」と言って申請をあきらめさせようとする自治体も一部あるという。なんだかため息が出てくるような話だ。
そんな扶養照会について、つくろい東京ファンドがアンケートを行った。対象は、この年末年始に困窮者向けの相談会を訪れた人たちで、165人。
165人中、生活保護を、A)現在利用している人は22.4%。B)過去利用していた人は13.3%、C)一度も利用していない人は64.2%で128人。
いま生活保護を利用していない、B)とC)の人に、その理由を聞いたところ、もっとも多かった回答が「家族に知られるのが嫌」(34.4%)だった。20〜50代に限定すると、77人中33人(42.9%)が「家族に知られるのが嫌」を選んでいた。ちなみに生活保護を利用していない人の実に52.1%が路上や公園、ネットカフェや簡易旅館など安定した住まいがない状態。それでも家族に知られるのが嫌で生活保護を利用していないのだ。
一方、生活保護を利用したことがある人59人のうち、32人(54.2%)が扶養照会に「抵抗感があった」と回答。
ここから、アンケートに答えてくれた人の記述を見てみよう。生活保護を今利用している人、過去利用していた人からは、扶養照会について、以下のような声があった。
「家族から縁を切られるのではと思った」
「親と疎遠なのに連絡された」
「親は他界。きょうだいに連絡行ったのが嫌だった」
「子どもに連絡いくのが嫌だった」
「知られたくない。田舎だから親戚にも知られてしまう」
「困ります。一回きょうだいが迎えに来て困った。その時もお金を一回置いていっただけ。どうにもならない」
「家族に知られるのがいちばんのハードル」
「親に連絡されることに抵抗あった」
やはり抵抗感は強い。中には以下のような回答もあった。
「以前利用した際、不仲の親に連絡された。妹には絶縁され、親は『援助する』と答え(申請が)却下された。実家に戻ったら親は面倒など見てくれず、路上生活に」
援助する気などないのに、親が「援助する」と言ったため生活保護を利用できずに路上生活になってしまったという最悪のパターンだ。扶養照会などなければ、この人は生活保護を利用でき、路上に行かずに済んだだろう。
また、生活保護を利用していない人からは、その理由として以下のようなものがあった。
「窓口で相談すると扶養照会される。年取った両親をビックリさせたくない」
「今の姿を自分の娘に知られたくない」
「子どもに連絡が行くのはイヤ」
「扶養照会があるから利用できないでいる」
やはり、扶養紹介が大きなハードルになっている。一方、もし制度が変わって、親族に知られることがないなら生活保護を利用したいと答えた人は約4割。
つくろい東京ファンドでは、都内のいくつかの区で、扶養照会の実績について調査している。前回の原稿で、足立区では2019年、生活保護新規申請世帯は2275件だったが、うち、扶養照会によって実際に扶養がなされたのはわずか7件だということは書いたが、他の区も同じような結果だった。
例えば台東区は19年、1187件の保護が開始されたが、なんらかの援助ができると回答したのはわずか5件で0.4%。荒川区、あきる野市に至っては、扶養照会の結果、なんらかの援助ができると回答したのは0件。本当に、やっても意味がないのである。
このアンケートでは、扶養照会以外にも、生活保護を利用する上でのハードルがいくつか挙げられている。そのひとつが「根掘り葉掘り」話を聞かれること。
「過去に〇〇区に行ったらとんでもない目にあった。取り囲まれて根掘り葉掘り」
「役所でいろいろ話すのが煩わしく面倒だった」
「かつて役所で嫌な目に遭った。体調悪くても身の上話からしなくちゃならない」
この回答に、深く頷いた。
私もこれまで少なくない人の生活保護申請に同行してきたが、「なんでそこまで過去のことを根掘り葉掘り聞くの? 関係なくない? 」と面食らったことは一度や二度ではない。
この年末年始、相談会に来て生活保護利用を始めた人からも、「小学校の名前とか、ものすごく遡って全部話さないといけなくて嫌だった」という声を聞いた。現在の所持金や仕事、住まいの有無など最低限の聞き取りはもちろん必要だが、中には「それ関係ある?」ということを延々と聞き出される場合もある。その人がこれまで辿ってきた人生について、あまりにも執拗に聞き出すのは、当人にダメージを与える行為だと思う。
なぜなら、それが「人生でもっとも成功している時期」なら気分がいいだろうが、もっとも経済的に厳しい時に「これまでの軌跡」を話すのは過酷なことだと思うからだ。
なんだか赤の他人に「人生の成績表」の点数をつけられているような、そんな情けない気分になるのではないか。そんなやりとりは、時に当人をたまらなく「惨め」な気持ちにもさせるだろう。
こんなことを書くのは、「聞き取り」がひとつのきっかけとなったのではないかと言われる心中事件があるからだ。
それは15年11月、埼玉県で起きた一家心中。70代の父と80代の母を乗せ、40代の娘が運転する車が深夜、利根川に突っ込んだ事件だ。40代の彼女だけが生き残り、70代の父親、80代の母親は死亡。女性は母親に対する殺人と父親に対する自殺幇助の罪で逮捕された。
親子は数日前に生活保護の申請をしており、心中の2日前には役所の職員が調査のため、自宅を訪れていた。母親は認知症、パーキンソン病を患い、女性は3年前から仕事をやめて介護に専念していた。父親の新聞配達が一家の唯一の収入源だったが、少し前、父親は頚椎を痛めて仕事ができなくなり、困窮の果ての生活保護申請だった。
調査の日、どんな聞き取りがなされたのかはわからない。しかし、裁判で女性はその時のことを聞かれ、言った。
「今までの人生、惨めだなと思いました。高校も中退して仕事も転々として。父の人生も、同じように惨めだと思いました」
「役所の調査であまりにも惨めな気持ちになったので、早く死のうと思いました」
もうひとつ、生活保護に抵抗があると答えた人たちが回答したのは「生活保護という言葉が嫌」「イメージが悪い」という、制度そのものに対する忌避感だった。
「生保のイメージはよくない」
「生活保護という名称でなければ利用したい」
「生活保護の響きが嫌」
「名前を変えてほしい」
一方、「世の中の偏見、バッシングが変われば受けたい」「もっとカジュアルに使える仕組みがあれば」という声もあったが、やはり「生活保護」というネーミングとそこに付随するイメージから、利用を尻込みしていることが窺える。
ここにひとつ、参考になる事例がある。それは韓国の制度改革。
韓国では15年に日本の生活保護にあたる基礎生活保障法が改正され、制度が抜本的に変わった。それまで、日本のように生活保護を利用すると丸抱えで面倒を見てもらうというものだったのが、医療扶助、住宅扶助、教育扶助などと7つほどの扶助に分けられたのだ。いわばパッケージ給付から個別給付になったのである。それによって、住宅扶助だけの利用、医療扶助だけの利用という形で使えるようになった。
例えば今生活が苦しい人の中には、家賃だけ給付されれば楽になるという人がいるだろう。医療費が家計を圧迫している人であれば、医療費がタダになれば助かる人も多いはずだ。そのように、個別で使える制度にしたことによって、それまで根深くあったスティグマも解消されたという。
これは非常に参考になる事例ではないだろうか。
最後に書いておきたいのは、「相部屋」についてだ。
アンケートには、生活保護を利用したくない理由として、無料低額宿泊所などの相部屋生活が嫌、という意見も多く寄せられていた。
首都圏では、住まいのない人が路上などから生活保護申請をした場合、大部屋、相部屋の施設に入れられることが多い。食費や家賃として生活保護費の大半を取られてしまうのもよく聞く話だ。支援者が同行すればそのような施設を経由することなくアパート転宅への道筋をつけられることもあるのだが、一人で申請すると、「施設に行くことが条件」のように言われることもある。それが大きな壁になっているのだ。
以下、相部屋について寄せられた声だ。
「池袋のやまて寮や世田谷のSSS、大田区のひどい施設に入れられ、嫌になって保護を切った」
「施設の待遇が悪い。食事悪い。設備悪い」
「金をたかられたり、人間トラブルの温床だった」
「過去に自立支援を利用。10人部屋。人間トラブルで懲りた」
「区が積極的に貧困ビジネスの宿泊施設を利用するの、やめてほしい」
「集団生活しなくて済むようにして欲しい」
「(施設で)歌っていたり、大声出す人と一緒の生活をするのはNG」
中には、こんな切実な声もある。
「生保受けたらやまて寮に入らなくてはいけない。1ヶ月7000円しか残らない。福祉が紹介する施設が悪くて生保を受ける気にならない。保護いらないから雨を凌げる寝場所が欲しい。火をつけられたり花火打ち込まれたりしなくて済む安全な寝場所を提供してくれればいい。襲われる心配のない安心して寝られる場所が欲しい」
たったこれだけのことが実現しないのが、この国の福祉の実態なのかと思うと悲しくなってくる。
ちなみに相部屋の施設の中には、「コロナ対策」として20人部屋を12人部屋にしたところもあるという。これのどこがコロナ対策? と突っ込みたくなるのは私だけではないだろう。
また、回答の中には、役所の対応がひどいこと、悪意ある対応をなされたことなども書かれていた。
一方、アンケートに答えた人の中には、「家に子どもと失職した夫がいる。3人分の食料をもらわないといけないから、これから別の炊き出しに行かなくてはならない」という人もいた。
コロナ禍により、明らかに路上生活には見えない女性が炊き出しに並ぶことが増えたと思っていたが、こういう事情があったのだ。
このような状況の人にこそ、福祉は手を差し伸べるべきではないだろうか。だって、炊き出しを巡って夫と子どもの食料を確保している時点で、もう限界だと思うのだ。もう、みんな「自助」を極めている。「公助」をもっともっと利用しやすくして、根こそぎ救うくらいの制度変更をしないと、庶民の生活はもう持たないところまで来ている。
つくろい東京ファンドでは、このアンケートを結果を受け、ネット署名を始めた。「困窮者を生活保護制度から遠ざける不要で有害な扶養照会をやめてください!」という署名だ。
コロナ禍の中、誰にとっても他人事ではなくなった貧困。
同感だ、という方は、ぜひ署名してほしい。