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3・1ビキニデー

2021年03月01日 | 事件

文春オンライン

  連載 昭和事件史

「西から太陽が昇った」太平洋に降った死の灰 歯ぐきの出血に脱毛…日本人が核の恐怖を最も感じた日 | 文春オンライン (bunshun.jp)

より、最初の文と最後の文章をお借りした。長文である。一読を願う。被爆国の国民として。

 

「西から太陽が昇った」太平洋に降った死の灰 歯ぐきの出血に脱毛…日本人が核の恐怖を最も感じた日

「もしもあの時あの場所にいなければ…」第五福竜丸事件 #1

 

小池 新

 

 全ての核兵器を違法とする核兵器禁止条約が今年1月に発効。核廃絶に一歩踏み出したとされる一方、アメリカの「核の傘」の下にあることを理由に、日本政府が署名を拒否していることに被爆者らからは強い批判が出ている。

 広島、長崎と2度被爆した日本だが、それから76年、どれだけの日本人が核兵器の恐ろしさを感じているだろうか。いまから67年前の1954年の春、静岡県のカツオ・マグロ漁船が南太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に伴う“死の灰”を浴び、被爆した乗組員の1人が死亡。放射能に汚染された“原爆マグロ”や“原爆雨”などによる健康被害に多くの国民がパニックに陥った。当時は広島、長崎の惨害が十分には知られておらず、この事件の時期は、日本人が最も核の恐怖を身近に感じた時だったといえる。

 

〈略)

 

「もしもあの時あの場所にいなければ…」第五福竜丸事件 #2

事件の衝撃と水爆のその後

 事件の衝撃もあって、水爆の開発は事実上ストップした。

「各地で市民の中から自発的、自然発生的に水爆実験禁止や原子兵器反対の署名運動が始められた」「公民館長の永井郁・法政大教授を囲んで読書会を開いていた東京・杉並の母親の学習グループは『水爆禁止署名運動協議会』をつくり、1954年5月9日に呼び掛け、1カ月余りで区民の7割の署名を集めた」(「岩波ブックレット 第五福竜丸」)。原水爆禁止運動の始まりだった。

 同書によると、8月には署名を集計する全国協議会が結成され、署名は12月には2000万人を突破。翌1955年には第1回「原水爆禁止世界大会」が広島で開催される。第五福竜丸の“犠牲と功績”といえるだろう。

 その後、原水禁運動は分裂。海外から逆輸入する形で「反核運動」が広がり、現在に至っている。第五福竜丸は東京水産大の練習船として使われた後、1967年に廃船となり、東京・夢の島に放置された。1968年にそのことが報道されて保存運動が起き、「東京都立第五福竜丸展示館」として現存する。また、「死の灰」によるマーシャル諸島住民の被害も明らかになり、ロンゲラップ島では1984年に住民全員が離島した。

広島、長崎から約9年…根付かなかった原爆被害の実情

 それでは、いまの視点から見て、第五福竜丸事件とは何だったのだろう。

 事件直後、1954年3月20日付朝日朝刊の「声」欄には、MSA協定などと絡め、「食卓の魚にまで放射能の心配をせねばならぬほど身近に、本当に身近に体験したことは、われわれにあらためて日本の将来を真剣に考えさせるという点で大きな意義があった」という学生の投書が載った。

 3月26日付読売朝刊の専門家による座談会では桶谷繁雄・東京工大助教授(のち教授)が「こんなものすごい武器ができた、下手をすると人類が滅亡する、そういう問題です」「今度の第五福竜丸の事件は世界中の人々を考えさせたことでしょう」と述べている。当時の感覚がつかめる。

 しかし、そのこと自体が、まだ9年近くしかたっていなかった原爆被害の実情が、広島、長崎以外の国民に根付いていなかったことを示している。占領期は原爆に関する報道が規制され、独立後も、広島、長崎以外では「平和教育」は限定的にしか行われなかった。

「ビキニ後」も「放射能雨」の恐怖はわずかな期間で消え失せ、「資源小国」のハンデから原子力平和利用が声高に叫ばれて原発政策が推進された。ビキニから57年後の2011年、東日本大震災で東京電力福島第一原発事故が発生。メルトダウン(炉心溶融)の危機は一時深刻だった。だが、地元以外のどれだけの人がその恐怖を実感し、いまも持ち続けているだろう。

 風評被害は冷静・公正な報道と合理的な理解が不足しているからこそ起きる。そのことは第五福竜丸の“原爆マグロ”騒ぎからも明白だ。

あの時あの場所にいなければ

 ジャーナリスト浦松佐美太郎は「世界」1954年6月号掲載の「第五福竜丸の存在」という文章で広島、長崎の被爆に触れ、こう書いている。

「恐怖の記憶は過去の戦争の出来事として、その生々しさを失おうとしかけている時に第五福竜丸の遭難事件が突発したのであった。過去の恐怖がもう一度、ギラギラと光る生々しさをもって、一足飛びによみがえってきた。しかも今回の事件は広島、長崎の場合と違い、爆弾による直接の被害ではなく、爆発によって吹き飛ばされた『灰』という、捉えどころのない間接の被害だっただけに、日本人が心に感じた恐怖も一層深刻であったと言い得るのである」

 しかし、主に報道について彼は指摘する。彼はアメリカ側の「スパイ説」を取り上げ「(それなら)日本人は日本権益と日本人の自由を主張する立場から報道していいはずであった」と述べる。そして次のように指摘している。

「第五福竜丸の事件には、一つの重大な意味があったはずである」「もしあの時、あの場所に第五福竜丸がいなかったらば、という仮定の上に立ってもう一度考え直すことは今でも必要だと思われる」。その言葉はいまも意味を持っている。



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