TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

ワタクシの前にある介護ベッドとポータブルトイレと……

2024年12月29日 | エッセイ
25日夜7時。
翌日の父の退院に備えて、福祉用具の事業所職員が、介護用ベッドと、ポータブルトイレ、シャワーチェアを届けてくれた。
2メートルほどもありそうな背の高い男性と、がっちりタイプの男性である。
まずはベッドの位置を決める。
居間に据えるか、今までどおり寝室に置くかで検討したが、結局、いっしょに寝起きする母の居心地も考えて、今までどおり寝室に置いてもらうことにした。
鉄でできたベッドの枠を、がっしりタイプの男性がひとり黙々と組み立ててくれた。
ポータブルトイレはお試し版だそうで、木目調のがっしりタイプ。
後輪がついてはいるが、移動させるのにはそうとう重く、場所もとる。
それほど狭くない寝室が、これらの用具でいっぱいになる。
これまで置いてあったごちゃごちゃしたものすべてを廊下に放り出して、ようやく収まった。
病院内でのリハビリの結果、伝い歩きながらトイレまで行けるようになった父が、果たしてポータブルトイレを使う気になるかは疑問である。
杖や手すりでさえ、みっともないと言って使おうとしないのである。
いずれにせよ、トイレごときに木目調なぞ必要がない。お試し期間が終わる年明けに、もう少し軽くてお安いプラスチック製に代えてもらおうと思う。
ベッドを置くことで、寝室がいっきに”介護部屋”らしくなった。
レンタルひとつ申し込みをするのにも、書くべき書類がたくさんあった。
入院してから今までの間、いったい何枚の同意書なるものにサインをしただろう。

翌日26日午前中、退院のため、病院に父を迎えに行く。
朝から母が心なしか張り切って見える。
会計を済ませ、車いすを借りて病棟へ行くと、父本人の朝食がまだ終わっていないらしい。面談室で待つ。
かなりの偏食のために、食事ひとつ摂るのにも、スタッフの手をわずらわせてきたのだろうな、というのが想像できる。
「本日の退院担当の看護師です」と今日初めてお顔を拝見する看護師さんが挨拶に来られた。
日替わりで担当者が変更になるので、入院から3週間あまり、何人の院看護師さんやリハビリスタッフにお世話になったのかわからない。
年末のこの時期、ほかの業務が押しているのか慌ただしい雰囲気がみなぎっており、退院後の処方や年明けの外来日の説明などを早口で受けた。
父を着替えさせつつ、それらの説明を聞く。
地域連携室のスタッフが挨拶に来てくれた。
これまでのケアマネさんと知り合いのようだったので、それだけでなんとなく安心感がある。
お礼のお菓子を看護師さんにぬかりなく渡すと、遠慮しながらも受け取ってくださった。
以後、心なしか愛想がよくなった。
「お世話になりました」「ありがとうございます」を繰り返して病室を出る。
部屋を出るとき父が、「良いお年を」と言ったので、その場にいた一同の間に、「そういえば、年末だったのだわ」というような空気がいっとき流れた。
そうした世間並みの挨拶がすっかり頭から消え去るような慌ただしい雰囲気だったのである。

午後1時半。
地域包括支援センターのケアマネさん3人と、訪問看護事業所の管理者さんがやってきた。
本日付けで、これまでのケアマネさんHさんは退職である。
彼女の元気に支えられてきたところもあるので、わたしはそれが心細くて悲しくてしかたがない。
母が玄関口で彼女に向かって、「〇〇さん、いつもお元気そうでうらやましい」とお愛想を言うと、彼女いわく「そういうふりをしているだけです」と明るく返してくれた。
彼女自身、ご自分の親御さんの介護をしているとおしゃっていた。
彼女の「元気」は、元気なフリの元気だったんだ、と少し共感する。

スタッフが4人そろって、いっきに部屋の中がにぎわった。
ベッドの位置について、皆さん、一応、侃々諤々思いついたことを述べていたが、結局「このままでやってみましょう」ということになった。
最初からそうなることがわかっているような、議論のための議論という感じではあった。
ひととおり確認が終わると、これまでのケアマネさんHさんと、もうひとりのケアマネさんがひと足先に帰ることになったので、玄関まで送る。
部屋に戻ると、母を中心に、「火葬」の話題で盛り上がっていた。
いったいどんな流れでそうなったんだろう。

今後の看護計画について、ケアマネさんと訪問看護の管理者さんから説明を受け、同意書にサインをする。
本当に書くことが多い。
じっくり読んでいる暇はない。
とりあえずワルイ様にはしないんだろう、とそう思うしかない。

管理者さんが父をシャワーに入れてくれることになった。
そのタイミングで残りのケアマネさんが帰る。
皆さん、ご自分の御用が済んだら、さっさとお帰りになる。
まあ、それは仕事なので、あたりまえのことなのだが、そうとわかっていても、いわゆる感情労働のかたには、それ以上のものをどうしても期待してしまう。
父本人は「疲れたから」とシャワーを拒んだが、「そうしたら次は1月6日になっちゃいますよ。動作確認もしたいですから」と管理者さん。
ここでも年末年始問題が出た。
ケアは、本人中心のはずだ。
6日になってしまうのは事業者側の都合だ。
せっかく事業者さんがそう言ってくれているのだからと、本人の希望を代弁してあげられなかったことを、父に対して申し訳なく思う。
この時期のシャワーは寒いのに。
しかしボウボウに伸びたひげと、固く伸びた爪を切ってもらい、父も満足のようだった。
生協さんが今年最後の配達に来る。

人がこうやって来てくれるとメンタル面が助かる。
それを思うと年末年始の休みは辛い。
よりによって長いのだ、今回の休みは。

嵐のあとの静けさ。
朝9時から夕方まで、ぎっしりといろんなことが起きた。
周囲に、入れ替わり立ち代わり人がいた。すべて父に関わってくれた人たちだ。
介助しようと、車の外に出て待ってくれていたタクシーの運転手さん。
途中立ち寄った床屋さんの前で、ドアを押さえてくれていた女性。
健康な時には気づかなかった親切な人達のちょっとした動作や発言に救われもした。
「人の弱いところにつけこんでお金をむしりとってくよね」と介護サービスについて母がこぼした。
確かにそういう見方もあるが、助かる部分も多いのだ。

その夜、「トイレに行く」のに邪魔になるからと、父が自力で、あの重いポータブルトイレを端っこに動かしていた。
このトイレの出番は、幸いなことに少し先になりそうである。

長いような短いような時間感覚がおおいに崩れた12月が終わろうとしている。
わたしも年末年始の休みにはいった。
実家に戻ったついでに自分の部屋を整理しようと段ボール箱を開けていると、中学校時代の国語のノートが出てきた。
石垣りんの詩『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』の感想文が書かれている。
今、わたしの前には、介護用ベッドと、ポータブルトイレと、シャワーチェアがある。
この詩が書かれた当時よりも電化製品がいきわたり、家事も格段に時短となった現在だが、女性の置かれた状況はあまり変わっていないよねえ、などと、このタイミングで現れた感想文ノートを見てそう思う。
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退院に向けて

2024年12月21日 | エッセイ
19日午後2時から、父の入院している病院の地域連携室主催で、退院後支援についての話し合いが行われた。
わたしと母が時間の10分ほど前に到着すると、小さな面談室に案内された。
そこへ病棟の看護師さんが来て、「今日はちょっとたくさん来られるようなので……」と言いながら事務机のまわりに椅子を並べ始めた。
なんでも、実習生を含めて10人ほどだとか。

2時。普段お世話になっている地域包括センターのケアマネさんがふたり来られた。
これまでのケアマネさんは今月いっぱいで退職である。
新しいケアマネさんを伴ってやってきたのである。
「顔見知りの方に来ていいただいて心強いです」と母。確かに、病院ではたくさんのスタッフがローテーションで働いているので、面会のたびに初対面の顔を拝見することになり、心細い思いがしていたのである。

そして2時過ぎ。
どやどやと病院のスタッフが入って来た。
あっというまに小さな部屋が人で充満する。
「密になっちゃいますから」と言いながら、スタッフが部屋の窓を開けた。
「密」という言葉を久しぶりに聞いた。
最近は、退院のたびにこうした大々的な会議が本人やその家族も交えて開かれるのだろうか。
参加者は、本日の司会を担当する連携室のTさん、主治医のS医師、リハビリ担当のYさん、担当看護師のIさん、実習生の若い学生さん。そしてふたりのケアマネさんと訪問看護事業所の管理者さん、わたしと母。
それぞれが軽く自己紹介をして、それぞれの立場から順番に父の状況について話す。
退院できるかどうかというよりも、現在の落ち着いた病状や年末年始の医療体制からして、すでに「退院」という結果ありきで、それに向けての調整や日程の話のようである。
もちろんそこまで回復したのだから喜ぶべきことなのだが、(多勢に無勢ではないが)、父が戻ってきたあとの不安事について口を挟むのがはばかられる。
それを察してこれまでのケアマネさんが代弁してくれる。
それで結果は変わらなくとも、一旦その不安感や心配事に耳を傾けてもらい、そのうえで決まったことならば、と納得もいく。

わたしの年末年始の休みに併せて26日が退院日と決まった。
それに合わせてケアマネさんが介護ベッドやポータブルトイレ、シャワーチェアーの手配を、訪問看護の事業所が訪問看護や訪問リハの調整をしてくれることになった。
この慌ただしい時期に本当にありがたい。
介護認定を受けておいてよかったと思った。
退院の日取りが決まったところで、「ではご本人をお呼びしましょう」と、車いすに乗せられた父が連れて来られた。主役登場だ。
父は、(わたしもそうだが)、その場を盛り上げようと、つい“受け狙い”しようとする傾向がある。
そうした性分は認知症になっても変わらない。
多少失礼な発言も、「認知症なんだから」と大目にも見られているようだ。
父の偏食の話などで座が明るく盛り上がる。
父は90歳である。先日看護師さんが言っていたが、「なにかあっても大往生」である。
病気は治っても老化は食い止められない。
そうした達観のようなものもあっただろうか。

小一時間も経った。
話がスムーズに進行し、退院日もめでたく決まり、「同意書」なるもの3枚ほどにサインをして、解散となった。
祭りのあとの寂しさではないが、先ほどまでが賑やかだっただけに、急に高齢両親と3人取り残されて寂しさがひとしお身に染みた。





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師走に走る

2024年12月18日 | エッセイ
12月初めに父が心筋梗塞で入院してから2週間。
今日明日の命がどうなるかという段階を乗り越え、どうにか年末には退院のはこびとなった。
最近は病院での治療を終えると、できるだけ早く退院へという方向に舵をとるようだ。
この時期は例年、アッという間に月日が過ぎるが、今回は毎日が綱渡り、長い長い2週間であった。
不在時の荷物の受け取りについて生協に電話をするという些細なことから、父のかかりつけ医との調整、本人との面会、ケアマネさんへの連絡、その合間に週3日とはいえ職場に出勤……と毎日なにかしらしなくてはならないことが沸き起こり、いったい今日が何曜日なのか、混乱するほどであった。
勤務時間中にケアマネさんや病院スタッフからの電話を待つのは実に落ち着かなく、拘束時間を不自由に思いもしたが、反面、単純な事務作業を黙々とこなしていると、それだけで気も紛れ、その単調で平和な感じに救われもした。

先日父に面会に行くと、『心筋梗塞まるわかり教本』なるものが病室に置かれていた。
病名の深刻さのわりには、気軽な文言だ。
退院後心がけたほうがいい事項について、運動や栄養の管理について丁寧に書かれている。
しかし同じ病気でも、4,50代の患者と、90歳を超えた患者とでは状況もずいぶんと違ってくる。
「もうお年ですから」とふた言目には言われる年代だ。
自宅に連れて帰って何かあった時の不安を話すと、(まだ生きているんだけど)「90歳といえば、大往生ですよね」などと若い看護師さんに明るく言われたりもする。
そこが医療関係者という他人と、家族の立場の違いによるものだとわかっていても、なんだかもやもやとする。
残りの人生、なるべく楽しく過ごしてほしいというのは本当だが、そうなると教本の内容をどこまで”強制”するべきかわからなくなってくる。
父は極度の偏食であり、塩分控えめ、野菜をたくさん摂りましょうなどという教えは、ほぼ実現不可能なのだ。(だからこうした病気になったのかもしれないが)。

明日19日は、病院の地域連携室で、担当スタッフとケアマネさんと、在宅支援についての面談がある。
本人は帰宅を強く希望している。
年末年始は医療機関の体制が手薄だ。年末ぎりぎりまで病院で面倒を見てもらいたいというこちらの願望は、あくまでも本人のためというよりも、こちらの「安心」のためだ。
「果たしてこれでよかったのかな」「これでいいのだろうか」という(苦手な)「選択肢」問題が続きそうである。
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『劇場版 ドクターX FINAL』

2024年12月07日 | エッセイ
『劇場版ドクターX FINAL』を観に行く。
何か月も前からずっと楽しみにしていたのがようやくこのたび上映の運びとなったのである。
ドラマ版は全て録画して見てきたので、登場人物にも懐かしさを覚える。
入り組んだ事情や人間関係の脚本のみごとさはいつものことながら感心してしまう。

劇場版でも、最後まで大門未知子は失敗しなかった。
そして、病に倒れた神原晶ももしかしたら今後、蘇生することもあるかもしれない、という期待をもたせてくれる結末だった。
西田敏行演じる蛭間会長が、この心臓移植手術を「隠ぺいするように。わたしはこのオペを見なかった」と言ったのは、病院の利益のためなんかではなく、初めて、大門ドクターをかばうための発言だったのだとわかった。

実は父が先日心筋梗塞で入院した。
救急搬送が早かったのでステント術を受け、4,5日間ICUにはいり、現在は一般病棟にいる。
ICUに面会に行くたびに、心電図、心拍数を示すモニターや血圧、酸素飽和度のデータと御対面することになり、”リアルドクターX”の現場にいるかのような状態だった。
ガラス張りの病院の渡り廊下を見ると、手術を終えた大門先生が、背筋をスッと伸ばしてハイヒールで颯爽と歩く姿を思い出した。

実家に帰ると、主のいない父の座椅子がそこにある。
いつもはそこに座って何をすることもなくテレビをただじいっと眺めているだけなのだが、生きてそこにいるのといないのとでは、あたりまえのことだが全く違う。
神原晶の存在もまたそれと同じで、彼は意識がなくても、そこにいることで、これからも未知子たちを支えていくのだろうな、という未来を予感させた。
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謎のマイナ保険証

2024年12月06日 | エッセイ
かかりつけのクリニックの受付で、マイナ保険証のいわゆる紐づけ登録をしようとすると、「それは自分でアプリから登録しないとダメですよ」と言われた。
「薬局でもできないですか」と聞くと、あくまでも自分で登録作業の必要があるという。
さらに彼女は続けて、「カードを持っていると資格証を送ってももらえないらしいから、わたしはカードさえ作らないのよ」と言う。
ちょっと得意げだ。
わたしの不確かな記憶では、マイナンバーカードを作った人は、医療機関に直接行けば、そこで紐づけができてすぐさま保険証として使えると聞いたような気がしたが……。
不審ながら、こちらもよくわかっていないので、そういうものかと思いつつ、幸い紙の保険証がまだ有効なので、今回はそちらで受診することができた。
そして薬を受け取ろうと薬局に行くと、やはりアプリでの登録が必要ですと言われた。
マイナポータルというサイトのページもわざわざプリントしてくれた。

帰り際、往生際悪く、いつも目薬を処方してもらっている別の薬局に行ってみた。
ここではマイナンバーカードの提出を積極的に求められるので、もしかしたら登録をしてもらえるかもしれない、してもらえないまでも、その方法を教えてもらえるかも、と思ったのだ。
すると受付に置かれた小さな器械を指し示されて、あっさりと紐づけ登録は完了した。
なんだ、できるじゃないの。
あっけにとられた。

帰宅後、所属する保険組合から先日送られてきた書類を見て合点がいった。
それは資格情報のお知らせというものであり、「マイナ保険証の読み取りができない例外的な場合」について、マイナ保険証とともに医療機関の受付で提示すれば、受診できると書いてあった。
どうやら、その場で登録ができる医療機関と、例外的にできない医療機関があるらしい。
その例外的な医療機関にたまたま2か所続けて当たったようだ。
しかし、これらの例外的な医療機関にこの資格情報のお知らせを持っていって、果たして対応してもらえたがどうか。
そこまでこのお知らせの存在が知られているかどうか、それも怪しい。
マイナ保険証制度の情報が正しく共有される前に、この制度が出発進行してしまったために、医療機関のかたも含めて、みなさん、自分の経験をもとに話すしかないというような場面や状況に置かれているようだ。

それにしても、アプリ、アプリって最近この単語に置き去りにされることが多くなった。

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