我が生まれ故郷 信州・安曇野(あずみの)を想う!
私は、昭和26年、長野県南安曇郡の「南穂高村小学校」に入学した。 家は藁葺きの平屋で、祖母が家の前で野菜を作っていた。 国鉄大糸南腺の「豊科駅」と、篠ノ井線の「田沢駅」の中間に位置する「寺所村」に住んでいたが、父は私が2歳のとき病死し、母は父から感染した結核の為、松本の国立療養所にいて面会もままならず、私は安曇野で祖母と暮らしていた。
朝起きて、裏木戸を開けて外に出ると・・・ 目の前には万年雪を抱いた常念岳(2857m)、横通岳(2767m)、大天井岳(2922m)が正面に見え、左方面には穂高岳(3190m),大滝山(2616m)、槍ヶ岳(3180m)、右方面には有明山(2268m),遠く鹿島槍(2889m)、白馬岳(2932m)など・・・この日本アルプス連山の見事な景観は、いつも当たり前のように見ていたが、しかし子供ながら真冬の晴れた日に見上げる真っ白な山々や、春から夏にかけて・・・ また秋から冬にかけての山の移り変わりには、子供ながら何か畏敬的で神秘的なものを感じていた。
春になると田畑はレンゲ草のピンクの花で埋め尽くされ、頭上には天高くヒバリが囀っている・・・ 麦畑で新芽を踏む手伝いをしながら、なぜせっかく出てきた芽を踏むのか不思議だった・・・ 祖母は畑に種をまいている。 アルプスの山々の雪が少なくなってくると野山は新緑で溢れ、花や木が一斉に綺麗な花を咲かせ始める・・・ 生き生きとした新鮮な季節が始まるとみんな嬉しくなってくるのだった。
夏になると野菜畑にはいろんな野菜が実ってくる・・・ 大きなトマトを取って、横の小川で洗って口いっぱいにほおばったとき、目の前に大きなアオダイショウがこっちを向いていてビックリしたりものだ・・・ でもその小川では、竹で編んだザルを持ってよくどじょうすくいをした・・・ 沢山取れて祖母に持っていくと、それを甘辛く煮て出してくれたが、生臭くて嫌いだった。 家の周りにはいろんな果物の木があった。栗、柿、梅、桃、ぐみ、サクランボ、ぶどう、 くるみ、りんご、アンズ、はらんきょう(スモモ)・・・ それに名前はよく知らないが、もみの木に似た大きな木には小さな真っ赤な実がなって、それは甘くて美味しかった。 学校から帰るとそれらの木に登り木の上でよく食べてた。
梅の木にはいつも季節のなると、鳥が巣をつくり、卵を産み、やがてヒナが顔を出し、間もなく巣立っていく・・・ そんな光景を木に登り毎日観察していた。 時にはいたずら心で卵を隠したりすると、親鳥は泣き喚き必死で探している・・・ 可哀想になりまた巣に戻してやると嬉しそうにしている・・・ いつか孵ったヒナを鳥かごに入れて縁側に置いていたら、私がせっかく虫を捕まえてやっていたのになぜか食べない・・・ ところが元気なのだ・・・ ある日、そ~と見ていたら、なんと親鳥がせっせと餌を運び、鳥かごの外からヒナに餌をあたえていたのだった。 その母子離れ離れになっている光景に自分を重ね合わせ可哀想になり、すぐ鳥かごから巣に戻してやった。
小川の土手や、田畑のあぜ道にはセリ、ナズナ、よもぎ、つくし・・・ また、少し入るとふき、アサツキ、イタドリ、ウド、ゼンマイ、わらび・・・ など、沢山の食材があり、祖母と袋を担いで、散歩がてらよく採りに行った。 子供ながら何とまずいものかと思っていたが、大人になって飲み屋でそれらが出てくると、以外に美味しく懐かしかった。 畑の横には桑畑があって・・・ もともと桑の葉はまゆを取るための蚕(かいこ)の餌だが,私は桑の実が大好物・・・ 口の周りを紫にしてほおばったものだ。 そして蚕が糸を出してサナギになると、それはそれで甘辛く煮て、また食卓に上る。
田んぼにはタニシが沢山いた・・・ これも茹でておやつになった・・・ サザエのごく小さい感じで、小枝でなかから引っ張り出して食べた。 大人になって飲み屋でこのタニシがでて、海のもの・・・ と、大将が言っていたのでその気で食べたが味は一緒だった? 引っ張り出すというと「蜂の子」もよく食べた・・・ 屋根の軒下に大きな蜂の巣があった。 みんなで棒で叩き落し、はちが去った後で巣の中にある鉢の子を小枝で取り出して食べるのだが、なにぶん蜜を吸って子に与えているのか、とにかく甘くて美味しいのなんの・・・ でも失敗すると大変で、蜂の逆襲を受けて子供達は頭から蜂に刺され大事になる・・・ でもやめられないんだな。
秋になると、学校から帰るとすぐ友達と腰に袋を下げて稲穂の間に入りイナゴを採りに行く・・・ 袋は飛び跳ねるイナゴですぐいっぱいになった・・・ それはまた祖母が炒めてくれた。 フライパンの中でピヨンピヨンと跳ねる上から蓋をして、仕上げに醤油をすこし入れるだけだが、イナゴの足がすこし硬かったが、バリバリとよく食べた。 大阪に来て初めてイナゴの佃煮が百貨店で売っていたので食べてみたが、高くて不味かった思いがある。
小川にはコイやフナもいたのでたまには魚も食卓にはあったが、信州は海の無い山国なので、大概は干物や塩づけや味噌づけの魚が多かったな・・・ そんなわけで、終戦直後にもかかわらずひもじい思いもせずに、田舎の大自然のなかで伸びのびと育ってきた・・・
近くの寺所神社の境内では、季節ごとにいろんな御祭りがあり、夜店など出ると,それはそれは嬉しかった。 布を丸くくるめて糸で巻きつけた布ボールで、よく野球をやったものだった。 その後で、秋などは境内の裏にあるマツタケやシメジダケなどを採って帰り、祖母の料理の材料を調達したり・・・
夏祭りの後で、飛んでる沢山のホタルを追いかけて川に落ちたり・・・ それでもずぶ濡れになりながらも太いネギの中にホタルを入れて持ち帰り、蚊帳の中に放ち・・・夏の風情を愉しんだりしていた。 落ちたと言えば・・・ あちこちにあった肥えつぼに落ちて、文字通りクソまみれになったこともあったな・・・ 井戸の水を汲みながら、ブツブツ言いつつ私を洗う祖母の顔が可笑しかった・・・
しかし、母のいない家は寂しかった・・・でも、たまに母方の祖母がいる松本へ行く事ができた・・・ 私は自分がこの母の実家で生まれたことを知っているので我が物顔だったが、父が亡くなって不憫だと思ったのか・・・? 母の3人の弟と妹がその後もよく面倒を見てくれた。
安曇野の祖母は、住んでいる田舎家の端の馬小屋を、あるときから頼まれて豆腐屋に貸していた。 その豆腐屋のおじさんが松本まで豆を買出しに行くときに、私をよく連れて行ってくれた。 それは田沢から梓川沿いに2~3時間かけて歩いていったが、山には藤の花がきれいに咲いていたし、梓川の急流では釣りをしている人がいた。 おじさんは自転車にいっぱいの闇米を乗せ、おまわりさんがいたらその検問を避ける為に荷物の上に子供の私を乗せてごまかすのだが、ある日 前からおまわりさんが来て、おじさんは慌てて私と共に前の家に飛び込み隠してもらったりしていた・・・ でも優しい良いおじさんだった。 おじさんが豆屋さんに行っている間は、松本の祖母と楽しく過ごし、母の匂いを感じることができて、そんな時間が大好きだった。
私は8歳のとき、大好きだった祖母を田舎に残して大阪に来た。 母は病気から回復し元気になっていた。 そして母は母と共に同じ病院で療養していた人と一緒に所帯を持った・・・ それはかつて母が幼児の私を背負い、病院で亡き父の看病をしていた母の姿を知る人で、父の亡骸を共に担いでくれたと言う人だった。 私にクリスチャンの新しい父ができた。 そして養父となった父の仕事の関係で大阪に引っ越してきたのだった。 憧れの蒸気機関車に乗り、いくつものトンネルを抜け石炭のススで真っ黒になった顔で大阪に着いた。
着いた大阪の西淀川は、敗戦から8年経っていたとはいえ,まだ焼け跡が残り、軍需工場があったらしく米軍に爆撃され廃墟となった建物が散乱し,今までいた田舎の風情の落差にがったりした・・・ 田舎に帰りたい・・・ 転校した「大阪市立大和田東小学校」で初めてコンクリートの校舎の太い柱を見たときもビックリした。 住んだ家の周りには樹木も草花も何も無かった。殺風景なバラックの家が並んでいるだけだった。 何度も田舎に帰りたいと思った。 でもそれ以上に二度と母の傍を離れたくなかった。 それに二人の弟が生まれ、兄貴となっていつしか故郷への想いも遠のいていってしまった。
そうして中学、高校、大学、サラリーマン、結婚、会社経営23年間を経て、50代前半で引退、早い隠居生活に入り、恵まれた生活環境にもかかわらず、なぜか急にライフスタイルが変ったからか、心が空虚になってしまい・・・ うつうつとした心の病にいたり・・・ やがて箕面の森に魅せられ、心癒され・・・そんな訳で、再び半世紀を経て、心の中にあの懐かしい故郷の原風景が蘇ってきたのでした。
晩年、父と共に信州に帰った母は今、あの日本アルプスの雄大な山々を背景に、国宝松本城を望む城山の、きれいな「教会墓地」で、二人仲良く眠っています。 故郷(安曇野)は、遠き(大阪)において想うもの・・・まさに 「三つ子の魂、百まで」 ですね。 2008 11/9
(* これは、自分の子供たち、孫たちへの書き遺し文の一つです・・・) (完)
夏目漱石 と 箕面の森!
みつけた! ここだ・・・!
おおよその目星をつけて探し回り、やっと見つけたので思わず叫んでしまいました。
回りにはイチイ、イロハモミジ、ヤマザクラ、アラカシ、スギなどの大木が林立していて天を覆い、空の青さがかすかに見えるぐらいです。 少し先には箕面山・瀧安寺の本道(弁財天)と観音堂が見えますから、その北側山手にあたります。
いつも歩いている山道もすぐ上にあり、何気なく通っていた所なので少し驚きました。
先日、知人から 「読んでいた小説の中に箕面の事が記載されている所がありましたよ・・・」 と 聞かされて、私も読んで見ました。
夏目漱石 の 「彼岸過迄・ひがんすぎまで」(新潮文庫) ですが、これは明治45年1月1日から4月29日まで、朝日新聞に連載されたものとのことです。
そこには・・・
「・・・・・僕は昨日、京都から大阪にきました。 今日は、朝日新聞にいる 友人を尋ねたら、その友人が箕面という紅葉の名所へ案内して呉れました。 時節が時節ですから、紅葉は無論見られませんでしたが、渓流があって、 山があって、山の行き当たりに滝があって大変好い所でした。
友人は僕を休ませる為に社の倶楽部とかいう二階建ての建物へ案内しました。 其の所へ這って入って見ると、幅の広い長い土間が竪に家に間口を貫いていました。 そうしてこれがことごとく敷瓦で敷きつめられている模様が何だか支那の御寺へでも行ったような沈んだ心持を僕に与えました。 この家は何でも誰かが始めて別荘にこしらえたのを朝日新聞で買い取って倶楽部用にしたのだと聞きましたが、よし別荘にせよ瓦を畳んで出来ているこの広々とした土間は何の為でしょう。 僕はあまり妙だから友人に尋ねてみました。
ところが友人は知らんと云いました。 もっともこれはどうでも構わない事です・・・・・」 と。
これは小説の一部ですが、その書評によると・・・ 「・・・・・主人公に自分自身を重ね合わせた漱石の自己との血みどろの闘いはこれから始まる・・・・・」 とあり、どうやら箕面訪問も漱石自身の事のようですね。
そんな訳で、今日はその 「朝日倶楽部」 があったと言う場所を知りたくて、駅前の 「箕面市立郷土資料館」 を訪ねました。
係りの方に趣旨をお話すると3人がかりで調べてくださいましたが・・・ 分かりませんね? 知りません・・・ どこかな? そのうち・・・ 聞いてみますから・・・ と、電話で何処かへ聞いてくれましたが、それでも分からない? どの辺だろうか?
その内、係りのお一人から一枚の資料を出していただきました。 そこには次のような表題が書かれていました。
「大阪府・昭和7年・大阪府史跡、名勝、天然記念物調査報告(2) 箕面山、山内 茶店変遷図」 なるものでした。 今から80年前の調査資料です。
そして、その中にやっとその名称を見つけました・・・ 「明治34年4月許可・・・」と、個人名があり、その後 「朝日新聞社使用地、旧名・秋錦楼、現・朝日倶楽部・・・」 とありました。
私は喜び勇んでその場所を聞きましたが、それがどこの? ここの? と さっぱり分からず、そこを特定できるような詳細な地図でなく、係りの方も首をひねるばかりです・・・
そこで私はそれをコピーしていただき、その資料をもとにその内ゆっくりと自分で探してみようと思い、御礼を言って森へ向かいました。
今日の予定は、瀧安寺の手前にある紅葉橋から化石谷を登り、
望海の森を経、才が原林道へ抜けるつもりで滝道に入りました。 先月と違って森の緑が少し濃くなり、真緑と言うそうですが・・・ 実に爽やかな風の流れと新緑の薫りを楽しみながら歩が進みます。
横を流れる箕面渓流にはカワムツが沢山泳いでいます・・・ 見ると、それを狙って川面をじっとにらんで置物のように動かないアオサギの姿が見えます。 上空の木々の間を鳥たちがさえずりまわっています。 昆虫館の前には子供たちがいつになく沢山います・・・ どうやら先生も一緒のようで課外活動のようです。
私は紅葉橋の袂にあるベンチで一休みをしながら、先程の資料を取り出して眺めていました・・・ その時、ふっと何かを感じるものがあり・・・ 直感のような・・・ あの辺ではないかな・・・? 資料には橋本亭、梅やしき、加古川・・・の文字・・・
私は予定を変更して、すぐ前の瀧安寺霊園から細い一本の小道を見つけて上って行きました。 勿論初めての道ですが荒れていて歩きにくい・・・ 少しして広い台地に出ましたが、ここではなさそうです・・・
更に上に下にあちこち歩き回り・・・ 森中を歩き回っていると、やがて見慣れたいつもの山沿い道にでました・・・ そして、その下に開けた跡地らしき所が目に入ったのです・・・
資料を見ながら周りの環境と位置、それに下方に楓橋がある・・・ いつも何気なく見ていたのにここが探していた所とは・・・? 早速下りて見ると建物の土台があり、いかにもかつての別荘風です・・・ ここだ!
手入れをされなくなった鬱蒼とした森の中に、かつての面影をほうふつさせるものを感じました。 今は誰一人として分からないような、忘れられたかつての「朝日倶楽部」・・・明治時代の・・・ 100年以上前に、この地でかの夏目漱石が一時を過ごした事を思いながら・・・ 私は目を閉じてタイムスリップしながら思いを馳せ、しばし森浸りを楽しみました・・・。
やがてそこから石段を下り、小川にかかる小橋を渡り、更に枯葉で埋まったかつての小道を歩くと滝道にでてきました・・・ こちらが入り口で正門だったようです。
振り返って見上げるとそんなに距離はなく、昔に建物があった頃は、滝道からよく見えたのではないかと思われます。
道下の楓橋の袂には、森の中の山本コーヒー店と料亭・加古川が見え、資料とも完全に符合しましたよ。
今日は、箕面の森のなかの小さな発見をして、一人心がウキウキした一日でした・・・
「若葉して 手のひらほどの 山の寺」 夏目 漱石
ワガハイはマンゾクである・・・?
箕面山の霊力・歴史話し!
今日は地獄谷を登り、こもれびの森から箕面ビジターセンター前に着くと、一休みをしてから、「東海自然歩道」に入りました・・最勝ケ峰(535.5m)にある 鎌倉期の開成皇子の墓(宮内庁管理)を経て、やがて勝尾寺の裏山から「二階堂」横に下りてきました。
この二階堂は「法然上人第5番霊場」とのこと。鎌倉時代に法然上人はここで4年間止住され、念仏三昧に入られたとか・・この時に善導大師の夢のお告げにより、浄土宗本基の戒を授けられたと、記されている所です。
私は新装なった勝尾寺山門周辺を一回りした後、再び二階堂へ戻り、勝尾寺の全景を眺めながら一休みにしました。この地は数千年の昔より箕面山自体の持つ霊力によって、無類の聖地として崇拝されてき、奈良末期時代の西暦724年に善仲、善算の両上人がこの山中に草庵を構えたのが始まりと言いますから、もう1280年も昔の事とて私には想像もつきません。
やがて私は自然4号路を戻り、箕面大滝前を経て瀧安寺に下りてきたので、弁財天を訪ねてみました。この本尊の弁財天は、日本最初にして最古であると伝えられ、日本四弁財天の一つとして有名なのだとか・・・開基は西暦658年に、役行者(えんのぎょうじゃ)が箕面寺(後に後醍醐天皇の勅額を賜って瀧安寺と改称)を建立したのが始まりと言われているので、これも1351年も前のことです。古くから山岳信仰・修験道の根本道場として知られているそうで、かの空海や日蓮、蓮如などもここで修行したそうですからすごい所ですね。
先日のこと、箕面ビジターセンター横の自然2号路から修験道を登り、天上ケ岳(499.2m)へ向う途中で、山伏姿の修行僧と出会いました。その前は、同じ山伏姿で法螺貝を吹きながら下りてきた修行僧とも出会いました。この天上ケ岳には瀧安寺・奥の院として、役行者昇天の地としての山伏姿の銅像があり、大きな石碑がたっています。数年前にここを通りかかった時、偶然にここでの年一回のお祭りに遭遇したことがあります。そしてその時に、そこで偉い高僧の話を聞く機会がありましたが、私はその説法より、その後の大阪大学の教授と言う方が、科学的に測定したという「この山の磁力は相当強い!」 という解説だけが印象的でした。それを聞いたとき以来、この周辺での小便は全くやめにしましたが・・・スイマセン!
また瀧安寺は「日本の宝くじの発祥の地」としても有名で、「富くじ」と呼ばれ、全国に広がっていったのだとか・・・数年前に大阪商業大学の商業史博物館で開催された「富くじ博物展」で、その当時の瀧安寺の富くじを見せてもらった事があります。
私は帰路に、箕面駅近くの西江寺にも立ち寄ってみました。ここも西暦658年、役行者によって仏教の修行地として開かれ、大聖歓喜天と虫供養で有名です。そして10月3日はその「虫供養万灯会」の日で、盛大な催しが開かれていました。
前置きが長くなりましたが、今日のお話はこれからです。私は今日、箕面のお寺巡りをしようとか、そんな事を意識して歩いてきたわけではないのですが・・・帰宅して、例によって古本屋で1ドルで買い置きしていた本の中から一冊を取り出して読んでいました・・・すると・・! 偶然手にしたこの本の中から、昔の箕面の歴史話しが出てきたので、そこでその本をご紹介方々、箕面山の歴史を少し記してみたのです。本は「旅芸人の風景」(遍歴、流浪、渡世)沖浦和光著(文春新書)
今年82歳になる著者が、かつて昔の箕面村に住んでいた事から始まり、旧東海道と旧山陽道を結ぶ脇往還だった「西国街道」(今の171号線沿い)を通る遊行者、旅芸人、渡世人、香具師、行商人、渡職人、遊女など よるべなき漂泊の人生をおくった道々の者、ワタリ稼業の民族誌・・・とあり、それらの人模様から・・・かつて12世紀の後半、後白河院によって編まれた「梁塵秘抄」(りゅうじんひしょう)に歌われた「箕面山」と、中世に修験道で名を知られた勝尾寺、瀧安寺のことなどが記されているのです。又、明治の後半、急速に変貌していった箕面村や、今の阪急・箕面線(箕面有馬電気軌道)の変遷なども記されています。
ちなみに古来から箕面山は、山岳信仰に基づいて修験者たちが修行する霊山「九峰」に準じられていたそうですが、他はいずれも標高1000mを超える巨峰なのに、300m級の低山の箕面山が、なぜそれに準じていたのか? その霊力がいかに大きかったか分かります。
十四世紀前半に知恩院で作成された「法然上人行状絵図」に、箕面の山奥にある勝尾寺が描かれていて、山深い渓谷の道を歩く法然一行の背後に、一条の箕面滝が描かれている・・・とあります。修験者たちは山に篭って修行し、滝に打たれながら山の霊気に感応し、呪力を身につけたとのこと・・・
ご存知のように、勝尾寺は「西国三十三ケ所観音巡礼」の23番札所ですが、これは今人気の「四国八十八ケ所巡拝」よりもずっと古い歴史があり、その始源は有史以来の熊野信仰であり、縄文、弥生時代からのアミニズムと、渡来人がもたらした道教や仏教が複雑に混交しながら形成されたものだと著者は言います。
そんな歴史があったからこそ、この箕面大滝周辺は原生のまま広葉樹林が残り、人里からそんなに遠くないのに野猿が群れ、豊かな自然が残ったと言えるのでしょうね。私はそんな歴史のある箕面の森とは深く知らずに歩いてきましたが、改めてその歴史の変遷をかみしめた次第です。
しかし、偶然 手に取ったこの古本の帯びコピーに・・「定めなき浮世、道に生き、道に死す・・・」とあり、この定めなきよるべなき漂泊の遊芸民という言葉に親しみを覚え、もしかしたら私の前世のような気がして買い求めたのですが・・・
1ドル本も探せば、まだまだ面白い発見がありそうなので、当分 私の古本屋通いもやめられません・・・
(*管理人の「箕面の森のあれこれ話し」から再掲載)
4000万歩の男・・・箕面の瀧を見る!
先日は、外院の森-旧参道-茶園谷-自然4号路-ビジターセンターから
自然2号路-滝道-へと、歩いてきました。
しかし、森の中を何キロ、何歩歩いたのか? 分からなくなってしまい
ました・・・
と 言うのも、長年身につけて共に歩いてきた万歩計が、とうとう壊れて
しまったようです。
( これは昔、上の娘が父の日かにキャップやスティックと共に
プレゼントしてくれて、大事にして使っていただけに残念です・・・)
そこで、私の一歩は一体何センチなのか? 測って見る事にしました。
左足の先端から、一歩踏み出した右足の先端まで・・・
しかし、何回測ってもまちまちで定まりません・・・
どうも意識しすぎると、自然にはいかないようです。
ところが、それを見かねたハイカーの人が教えてくれました・・・
「自分の身長から100cmを引いた数字が、その人の約一歩の
歩幅・・・」 とのこと。
自慢ではありませんが、足よりも胴の方が長い私は、一歩が66cmと
分かりました。
そんな事を教えてもらいながら自分の歩幅に納得し、また森の光景を
思いだしながら、帰路に着きました・・・
しかし、少々まだ早い時間なので涼みがてら、いつもの古本屋に立ち
寄ることにしました・・・
何しろ少ない小遣いなものですから、もっぱら1ドル本に凝っている
のです・・・
でも、掘り出し物が続いていて、最近はやみつきになっています。
「4000万歩の男」 井上ひさし著 (講談社文庫)が、目にとまりました。
手にとって見ると、江戸時代に日本中を歩いて、初の全国地図を作り
上げた人・ 伊能忠敬(いのうただたか) のこととか・・・
しかも、55歳から勉強して、その後17年にわたり蝦夷地(北海道)から
九州まで全国をくまなく歩き、今のような測量機器がない時代に、
歩測などを用いて・・・
と 言うところに釘付けになりました・・・
歩測・・・?
私の一歩は66cmと分かりましたが、その本を見ると伊能忠敬の一歩は
69cmだったとか・・・ 私より少し足が長いようです。
その江戸時代の老人? が、4000万歩(27600km)も歩いて
測量したとは・・・ もうビックリしてしまいました。
しかも後ろの解説には、その初の日本測量地図は現在の地図と
比べても実に正確だったというから、伊能忠敬の天文・測量技術、
そしてその健脚振りには唖然とするばかりのショックを覚えました。
そして、その本棚の横には 「伊能忠敬のいた日本」 渡辺一郎著
(ちくま新書) もありましたので早速それらをゲット!
今週はこの計数ドルの本に夢中でした・・・
ところがページが進むにつれて、またビックリする記述が目に入りました。
まさかその伊能忠敬が、江戸時代に、この ”箕面を測量し、滝を
見物していた・・・” とは、知りませんでした!?
200年前の江戸時代に、日本中を歩いて地図を作った男が、
この箕面を歩いた歩数も4000万歩の中に含まれているのかと思うと、
俄然親しみを覚えてくるのでした・・・
全く箕面とは何の関わりもない本だと思って読んでいたのに
”箕面の滝を一覧・・・” なんて、伊能忠敬の日記に書いてあるのを
発見すると、もうワクワクしてしまいました。
それは文化6年(1809年)8月27日 江戸を出発した伊能忠敬の
第7次測量で、九州へ向かう途中、江戸から中山道を通り、京都から
山陽道測量時のこと・・・その伊能忠敬日記の一部を、転記してみます。
「11月7日、郡山本陣宿 泊まり (*現在の大阪府茨木市宿川 )」
「前日6日は摂津の広瀬村 (*現在の大阪府三島郡島本町)境まで
測ったのち、男山八幡に参詣、ついて明智光秀の古戦場、天王山へ
のぼって山々の方位を測り、山上の観音寺に参詣したのち山崎宿
(* 現在の京都府山崎町)に戻る。
京都代官、小堀中務の手代、大山崎の神主達が挨拶に出た 」
「8日、七つ半、夜明け1時間前に測量開始地点に向けて出発。
夜明けの六つ時に郡山(* 茨木の宿川) から測量を始めた。
豊島郡芝村を通る (* 現在の箕面市萱野交差点・・・国道171号線と
新御堂筋の交差点周辺・・・ カルフール・ヴィソラの南あたり )
芝村は忠臣蔵の義士・萱野三平の出生地で碑もある。
子孫は繁栄して50石の高を持ち、大坂にも屋敷があるとのこと。
先手が残した杭に側線を接続して、この日の測量を終わる。
その後、箕面山の滝を一覧して岩本坊に寄る。
(* 岩本坊とは私には不明?)
8日は 瀬川宿泊まり。
(* 旧西国街道の瀬川宿は、現在の「みのお自動車学校」の西側
あたりとか・・・)
郡山より瀬川まで2里5町39間4尺。」
「9日は昆陽宿 (* 現在の伊丹市昆陽)でお昼を食べる。
昆陽寺をへて 西宮宿泊まり。
瀬川宿より西宮宿まで2里5町32間、大坂・町奉行の支配下・・・」
ここより伊能忠敬は山陽道を測量して、鹿児島城下に到着したのは
翌年の7月24日だった・・・旨。
伊能忠敬が箕面を測量し、箕面の滝を一覧した時はなんと64歳の
時だったのですから・・・ 当時の年齢では隠居老人もいいところです。
200年前、江戸時代の箕面の滝はどんな風だったのだろうか?
それにしても当時の道路事情の中、同世代とは思えない伊能忠敬の
情熱と健脚振りには誠に恐れ入りました・・・
自分の足と比較するのもなんなんですが、”馬の脚 と カメの足” の
違いに、ただただ平伏するのみです・・・
森に灰皿・・・ 必要?
教学の森の西尾根道を登っていくと、途中にセメントで形取られた
丸テーブルに丸イスと共に筒立て型の灰皿があります。
森の中で一休みしながら、一服どうぞ・・・ とは!
なんとも親切な灰皿です・・・?
更にここから別の中尾根道を下っていくと、ここにも同じような丸イスと
灰皿が設置されています。
他にも数ヶ所ありますが・・・
私が特に印象深いのは勝尾寺園地の南の森の中に数ヶ所ある、
赤い灰皿です。
いずれも円筒型で高さは50~60cmのしっかりした物で、
「山火事用心! 神戸営林署」 との標示・・・
私はこの灰皿を見るたびにいつも違和感を覚えるのです。
タバコを吸われる方がこれを見るたびに・・・
「丁度エエとこに灰皿あるわ! ここは吸うてエエとこやねんな・・・
ここで一服しょうか!・・・」 などと、せっかく森のいい空気を吸って
タバコを忘れていたのに・・・?
寝た子を起こすようなものじゃありませんか・・・?
なんて! 思ったりします (笑)
所轄の神戸営林署が、親切に防火対策として灰皿を設置した物で
あることは分かりますがね・・・?
しかしよく見ると、ここはかつて間伐、伐採作業された所で、残材や
木片、木屑が沢山あり、火があればすぐにでも燃え上がりそうな所に
設置されており、余計に危ない気がします。
それとも作業員用の為のものだったのでしょうか・・・ ?
と 言うのも・・・
先年、清水谷のヘリコプターを使った大規模な伐採作業のときに
通りがかった私は、作業員がタバコを吹かしていてびっくりした事が
あったからです。
大工さんが家を建てながら、鉋屑の中でタバコを吹かすようなもので、
危なくて見ておれませんでした・・・
私は森の灰皿設置は、親切でも防火対策でもなく、喫煙も火災も、
むしろ逆に助長するのではないのかと思ってしまいますが・・・
皆さんはいかがお考えでしょうか・・・ ?
箕面の森の中では、かつてバーベキューなどの出来る場所は
何ヶ所かありました・・・
しかし、現在は箕面ビジターセンター横の 「もみじ広場」 で、
予約制で出来る程度です。
勝尾寺園地のウイングハウスでのバーベキューも全面禁止になった
理由に・・・
「いたずらによる火災発生、タバコの火の不始末・・・」 などの理由が
挙げられています。
史跡・「持国天の石蔵」横の展望台や、周辺の木のベンチなども、
同様の理由で廃止、撤去されています。
教学の森でもタバコの火の不始末によるボヤ発生がありました・・・
冬枯れの寒い日でしたが、私は偶然にその直後にその場に遭遇し
ゾ~! とした事があります。
他に天上ケ岳へ向う修験道で、火のついたタバコを見つけてあわてて
踏み消した事もあります。
捨てられたタバコの吸殻を確認して、再度踏み消した事も何度かあり
ます。
タバコの火を見ると消して歩く犬のことが、TVで話題になっていた頃、
自分の事のように思って苦笑していた事がありますよ (笑)
特に乾燥時の森は沢山の枯れ葉が埋もれているので、くわえタバコの
人を見ると ヒヤ ヒヤ します。
カナダやオーストラリア、アメリカのカリフォルニアでの森林火災は
毎年のように発生して、そのTV映像を見るたびに人事で無いように
思います。
たまたまTV映画で森林火災の消防隊のドラマを見たときにもそう思い
ました・・・ 他人事ではないな! と。
私は火災に対して、特別のトラウマを持っています・・・
それは中学2年の時、隣家からの失火により、目の前で自宅が全焼し
ていくさなか・・・
自分が大切に飼っていた小鳥・十姉妹(ジュウシマツ)の家族10数羽
が、火に包まれていく光景を目の前にした、辛い経験があるからです。
火は怖いです!
林野庁・近畿中国森林管理局が、国有林「明治の森・箕面自然
休養林」をモデル林として、05年(平成17年)に発表したこんな
記事があります。
それは、「・・・灰皿の設置は自然の森の中の遊歩道にはふさわしく
ない・・・ので、全面撤去を決めた・・・」
そして、「・・・ただ愛煙家にも配慮して森を全面禁煙とはせず、
吸いたい人は火の用心の上、携帯用の灰皿を持ってもらうように
よびかける・・・」
というものでした。
それから4年経っても、未だに「営林署」と書かれた灰皿が森の中に
設置されているのはいかがなものでしょうか?
森の中での自然体験を通して、青少年の健全な育成を目指すという
教学の森に、灰皿は必要ですか・・・?
行政の意思統一と真剣な対応を望むと共に・・・
みんなで自分たちの森を大切に守っていきたいものだと、切に願う
ものです。
今日は少し真面目な話でした・・・
09-6 (完)
気になる森の捨て物!?
先日、教学の森から西尾根を登り、六箇山へ向っていた時の事
です・・・
新緑の若葉も葉色が少しづつ濃くなり、イロハモミジの葉も小さな
幼児葉から子供葉となり、今は青年葉のようにしっかりとした手のひら
形に成長しています。
数羽のヒヨドリとカラスが頭上で ギャー ガー ギャー ガー と、
交互に歓迎の合唱をしてくれるのはいいのだが、うるさくてしょうが
ない・・・(笑)
尾根道の西側を見ると、樹間から池田や伊丹の市街地が見え隠れ
しています・・・
早速双眼鏡で眺めていると、丁度大型の飛行機が離陸していく所
です・・・
尾翼を見ればANAのマークです・・・ どこへ向うのかな?
こんな森の中から見上げている者がいるなんて、機内の人は想像も
つかないでしょうね・・・ (笑)
何とはなしに、目をそのまま眼前の谷間へ向けました・・・
下の渓谷には、石澄み滝から流れ落ちた石澄渓流が谷間を下って
いるはずですが、深い森なのでいくら双眼鏡でのぞいても見ることは
出来ません・・・
うん?
何かな?
黒い物・・・?
双眼鏡のピントを合わせて見ると、どうやら靴のようです。
一足だけ・・・?
よく見ると革靴のようだが、靴底が厚いので学生が履くようなもの
です?
なぜこんな所に一足だけが・・・?
そして衝撃の物が目に入りました・・・
学生かばんのようです?
しかも周りにノートのような紙片が見られます。
何となく急に寒気がしてきました・・・ まさか?
入らぬ事を想像してしまいましたが・・・ (笑)
谷間が急斜面なので確かめようも無く・・・ 想像するしかありま
せん・・・
急斜面でなくても、恐がりの私は確認には行かないと思いますが・・・
(笑)
誰が?
何の為に?
こんな所へ捨てたのか?
いじめかな・・・?
誰かがイタズラで捨てたのかな?
それとも学校が嫌になった者が自分で捨てたのかな・・・?
いろいろ頭の中を想像が駆け巡りました。
もう一度ピントを合わせてしっかりと見てみました・・・
どうやらかなり以前のもののようで古いものです・・・
ゴミで捨てたのかもしれませんね・・・ ?
森の中にはいろんな物が捨てられています・・・
しかし、森の中でこんな物はなぜか気になってしまいます。
箕面の森はボランテイアの方々や、箕面山パトロール隊の方々などが
定期的に毎月清掃活動をされています。
行政も環境整備には積極的ですから、奥地でも年に何度かチェックし、
季節ごとにきれいになっているものの、何かといろいろ捨てるマナーの
悪い人とのイタチゴッコは、今日も続いています。
実はあの日 見たものが気になって、今日再び同じ場所を尋ねて
きたのです。
確かこの辺だったんだが・・・?
双眼鏡でくまなく探していて・・・ 間もなく発見です!?
先日の靴がありました・・・
ところがあの日見当らなかったもう一足が、なぜか横手にあるでは
ありませんか? 両足揃った・・・!
ところでカバンは・・・ ?
それがどこをどう探しても無いのです・・・?
かなり綿密に探したのに、とうとう見当りませんでした。
おかしいな・・・ ?
数日前、相当の暴風雨の時があり、谷間へ流されたのかもしれま
せん?
或いは、確かカバンが皮製品のようだったので、キツネやタヌキや
イノシシ、シカなどの森の動物がくわえていったのかもしれない
し・・・?
あの時のノートのような紙片も見当らず、痕跡が皆無です・・・
なぜ・・・ ? 分かりません・・・ ?
森は動いている・・・ ?
何ともそんな不気味で不思議な気持ちになりましたよ・・・ (笑)
お願いです・・・
靴やカバンなどのお古は、森に捨てないでください・・・
一度、「八天の森」の切り株の上に、一台の古いテレビが置かれて
いた時は ギ ョ ! と、ビックリしたものですが・・・
後ろに回って切り株にコンセントでもあるのか? と、見たぐらいです
から・・・ (笑)
それが 「トトロの森・・・」 と、書かれた木片を見て笑ったものです・・・
トトロがおいていったと言うのか・・・?
こんな捨て方もあるのか・・・! と、そのしゃれっ気に感心したもの
の・・・後で、トトロがこんな所へ捨てるか! と、
腹が立ったものです・・・ (笑)
もう一度お願いしますが・・・
「森の中に靴やカバンなどを捨てないで下さい・・・!」
それを見た者は アレ コレ と、いらぬ心配をし、考えなくてもいい
ことを考えて、気になって気になって眠れないではありませんか・・・
私の事ですが・・・ (笑)
09-6 (完)
森と新型インフルエンザ・・・!?
メキシコから発生したとされる豚インフルエンザ(新型インフルエンザ)
の流行で、近隣の学校の一斉休校が続いています。
しかし、森の中ではいつになく若者が歩いていました・・・
確かに家の中ばかりではストレスが溜まります・・・
人ごみの中に出て行くことは禁じられているので仕方ないのかも
しれませんね・・・
人のいない山の中ならいいのか? といった感じです。
今日、裏山から勝尾寺に入ると、境内に人影は全くといっていいほど
無く、閑散としています。
休日と言うのにこの人気のなさは、やはり人ごみを避けたいと言う
みんなの心理なのでしょうか・・・?
来ている人の中にもマスクをしている人がいます。
そんな中で一休みをして見ていると・・・
一団の若者達が連れもって参拝に訪れていました・・・
見れば高校の野球部の一団のようです。
「勝ち運」 のお寺ですから、当然試合に勝つことを願いにきたようです
が・・・
人気のない境内に、その若者達の賑やかさだけが響き渡って
いました。
最勝ケ峰にてお昼を食べていると、今日初めて出会うハイカーの方が
やってきました・・・
しっかりとマスクをされています。
・ こんにちわ!
* こんちゃ! もうかないませんな・・・
・ 風邪ですか?
* そうでんねん! ちょっといつもの寝冷えですわ!
たいしたことありまへんが・・・
家でセキ一つでもしようもんなら、もうバイキン扱いです
わ・・・ 家の中におれまへんのや・・・
孫らにうつる言うて追い出されてかないまへんわ!
アハハハハ・・・ しかし、ちょっといきすぎでんな・・・
ほんまにいつもの風邪もひかれまへんわ!
山のぼってても息苦しいし・・・ もうはずしまっさ!
そう言いながらマスクを外されましたが・・・
見ればもう80歳近い方です。
森の中でも人に移したらいかん!? と、律義な方のようです (笑)
森の神社仏閣でも、山の中でもこんな感じですから、まして観光施設は
大変な打撃を受けているのでしょうね・・・ お察しします。
箕面ビジターセンターに着き、今日私が初めて見た鳥の事を知りたくて
「森の博物館」 をのぞいてみると、何やら張り紙が・・・
「・・・新型インフルエンザの影響で施設休館の通達があり・・・ 云々」
と、閉館の知らせです。
来週には何とか開けると思いますが・・・ と、係員のすまなそうな
言葉でした。
弱毒性で、まもなく終息しそう・・・ か? とか報道されていますが、
この一波の次、秋口からの第二波が本番のようですからね・・・?
森の散策もどう楽しめるのか・・・?
と言うのも、森の中でも鳥や動物からの感染もありうるわけで・・・ ?
何とも、何が起こるか分からないような想像のつかない世の中です
から、今から憂鬱です。
こんな時はバンジョのリズムにのって、好きなブルーグラスミュージック
でも聞きながら陽気に行きましょうか・・・ (笑)
(* 地元の816箕面FMラジオからは毎日、この陽気で 元気な
ブルーグラスミュージックが流れていますよ・・・!)
09-5 (完)
カラスと猿の迷惑話し!
いま私の住む箕面の近隣では、カラス公害とその原因とされるネコ屋敷
が話題になっています。
今夕のTV番組でも大きく報じられていて、この数日は毎日のように
各局が取り上げています。
みのもんた氏が以前に朝ズバTVで・・・ なんと迷惑な話なんだ! と
怒り、一躍全国ネットでも取り上げ始めました。
ゴミ屋敷問題が一時特番を賑わしていましたが、今はもっぱらこの話題
に移ったような感じです?
私が今日もウオーキングからの帰り道に、このネコ屋敷前の桜通りを
歩いていると、何やら前方でいつになく人が・・・
見るとあの民放TVでおなじみの名物リポーターが、カメラマンと共に
取材をしていました・・・
マイクを差し出された私は、とっさに この顔で? TVインタビューに
応え、全国に放映される事だけは避けようと、必死で逃れましたが・・・
(笑)
近日にでもまた、TV放映されるのかもしれませんね・・・ ?
変で迷惑な出来事なのに、自分たちの街が話題になるのは痛し痒しで、
気持ちのいいものではありません。
今日もTVの中で、箕面市長は・・・
「・・・あらゆる手を打って解決を目指します・・・ 」 としていましたが、
何しろ個人住宅地に起因する事なので、行政も司法も限界があるようで
困惑気味のようです。
別のTV特番によると、その内容とは・・・
「 そもそもこの付近は昔からの大きな屋敷が多く、敷地も広く、問題の
家はその中でも900坪もあり、敷地には高さ20mにもなる大きな2本の
大木エノキがあります。
その家には姉妹だという二人の老婆が住んでいます。
当初は自分たちのネコ数匹に庭でエサをやっていたのに・・・
その内に野良猫がくるようになり、やがて捨て猫を置いていく人もあって、
今では80匹にもなるとか・・・
それに毎日お婆さんたちはせっせとエサをやってきました・・・
ところがその毎朝のエサに目をつけたのがカラスでした・・・
やがてそのカラスたちもエサを頂戴するようになり、その情報が近くの
箕面の森のカラスたちにも伝播し、いつの間にかものすごい数のカラス
が毎朝飛び交うようになったのです・・・
いつしかカラスはその家の大木をねぐらとし、終日いるようになりま
した。
お陰で周辺の家の屋根はフンで真っ白になるし、電線上から下を歩く
人たちにめがけてフンを落とすし、中には路上で人の持ち物を
引っ張ったり、又 もらった餌の空き缶を加えて近隣地に落としたりして
いたずらをするようになりました。
ゴミ出しの日には、カラスはそれを食い荒らしてゴミが路上に散乱し、
大変な時期がありました。
今はネットや金網箱などで自衛したり、収集車の音を聞いてからゴミ出し
するとかで防いでいるのですが、大変な事です。
問題はこのお婆さん達が、いくら自治会や、行政や、偉い人が注意した
り説得しても 我関せず・・・! で、全く聞く耳を持たない事です。
今日もお婆さんが注文したと思われる、エサの缶詰や顆粒エサ袋が
大量に業者の車から家に運び込まれています・・・
近隣住民は ホト ホト 困り果てています・・・ 」 とのリポートです。
TVはこんな内容で、まさにその通りなのです。
私が毎朝 起床して庭から南の空を見ると、異常なカラスの大群が頭
を飛んでいて ゾッ! とします・・・
そのガー ギャー ガー の鳴声も半端ではありません。
あのヒッチコック監督の昔の恐怖映画、「鳥」のカラスを思い出して
しまいます。
いまや全国ニュースやTV特番で報じられるようになっても、事態は余り
改善されず、周辺で騒いでいるだけに感じます。
当のお婆さんたちは どこ吹く風! のようですから、本当に迷惑な話
です。
しかし、行政もあの手この手で具体的な外部対策を講じてくれています
ので、その効果は徐々にでてくるものと期待をしています。
もうひとつ最近の箕面の話題に、人のマナーと猿害の問題があります。
TV局も箕面への取材のついでにと思うのか・・・?
どこの局も同じようにネコ屋敷の後は、箕面ドライブウエイで沢山の
猿たちが車を止め、食べ物やお菓子類をねだっている光景を放映して
います。
それらの番組からの報道では・・・
今 箕面の猿は約600匹もいるとか・・・ ?
(どうやって調べるのでしょうか・・・? 興味 大です)
箕面の森の規模からいくと 200匹ぐらいが適正数なようですから、
3倍も多すぎるとのことです。
確かに私も森を歩いていて、見かける猿の多さに少し気になっていた
のですが・・・
里にも下りてきて、近くの住宅の中にまで入り込み、食べ物を奪って
いったというワル猿たちの事も聞きますから、これも大変です。
森の中ではないにしても、ドライブウエイ上にて食べ物をねだる猿たち
には・・・ 私も 恐い! と、思うときがあります。
路上にわざと寝そべり、止った車のボンネットや屋根、窓横のサイド
ミラーの上に飛び乗り、手を出してねだるのです。
中にはそれを喜んで、お菓子や食べ物を沢山ばら撒いている人がいて
、猿たちはわれ先に奪い合っています。
カロリーの高い人間の食べ物を食べているので、太っている猿も多いの
です。
警笛を鳴らしても動かない猿もいて、渋滞に拍車が掛かり、後続車は
否応なしに止らざるをえなくなります・・・ 困ったものです。
そんな光景ばかりをTVで放映されていると、箕面の森のイメージも
台無しです・・・
箕面の猿は恐い! と、ひとくくりで感じられ、そんなイメージの定着は
不本意なことです・・・
一番悪いのは、無責任に食べ物を与えるドライバーと言えます。
「 猿にエサを与えないで下さい・・・ 」 と、懸命に叫び訴えている
行政や関係者の声を無視して・・・
・ こんなぐらいええやんか!
・ おもろいやんか!
・ 子供が喜ぶねん!
・ おれらの勝手やろ! なに ゴチャ ゴチャ いうとんねん!
と、注意されても与え続ける人たちがいることです。
市の野猿管理の人たちが懸命に活動していても全くの無視・・・・
中には注意されて本気で怒りだす人もいて、情けない話です。
先日、別のTVインタビューで市長は・・・
「・・・今後エサを与えた人には罰則 一万円付きの市条例をつくる・・・」
と、明言しておられましたが、さて効果はどうでしょうか?
森のゴミ問題の時、いつも大量廃棄される才が原渓谷で、その林道へ
の車両通行を全面禁止にして、一気に改善を図った事例もあります。
TV番組も興味本位で部分的な問題だけを扱わず、断片的に報道される
猿害のみを見る人、聞く人には一方的な誤解を与えそうです・・・
もっと箕面の森の為に、地道に頑張っている人たちの活動にも、目を
向けて報道していただきたいものです。
近隣住宅のネコ屋敷とカラス問題も、他のゴミ屋敷と同様です。
箕面ドライブウエイでの猿へのエサやりもそうですが・・・
いずれも人間のマナーやモラルの低下が主因ではないでしようか?
遡っていけば戦後教育の弊害、核家族化、社会規範の低下、経済対策
の失敗、政治不信、政策不在、弱肉強食・自己中心的社会風潮など、
現代社会の縮図がここにあるように思います。
怒りついでにもう一つ言わせてください・・・
箕面の森の中腹に、突如現れた奇怪な人工物・・・?
ゴルフの練習場とか!
いくら民間の物とはいえ、余りにも無粋な景観に涙が出ます・・・
しかも、「森と緑の街」 を掲げる箕面市役所前からも・・・
通称ロマンチック街道からも、北の正面の森にその巨大な異物が
デン!
と、異様を誇るのは、なんとも皮肉な光景です。
行政の指導力を問われます・・・
景観条例はどうなったのでしょうか?
箕面の森の中までも、こんなカタチでどんどんと無造作に開発されていく
ようならば、早晩 箕面は魅力のない街になってしまうようで心配です。
最近は年のせいか・・・?
また ぼやき癖 が付いてきたようです・・・
かなり血圧が上がってきたようなので、今日はこの辺で失礼を!(笑)
(PS)
今日(25日)、お昼のTV(テレビ朝日「スクランブル」)を付けたとたん
に、箕面のカラス問題が放映されていました・・・
先日、私がウオーキングの帰り道に出会った三井リポーターが
詳しい取材と、その時の映像が流れていたのです。
丁度、今朝発生した北朝鮮の地下核実験のニュースの合間に・・・
このタイミングで自分の住む近隣の恥部が全国に放映されている
のかと思うと、注目度も高くなり、何とも情けなくなりました・・・
コメンテイターの一人、なかにし 礼さんは・・・
法的に手の出せないでいると言う行政の生ぬるい対応に、決断を促して
いましたが賛成です・・・
早く解決を見たいものです。
09-5 (完)
森の「救急ポイント」板に 感謝!
昨年から箕面の森の各所に 「救急ポイント」(安全救急通報板) が
取り付けられていますね・・・
大変心強く、感謝です。
私は還暦も半ばにさしかかると、自分では今が青春? と 思いきや、
足が上がらずに、山道の木の根っこにつっかかり、谷間に転びそうに
なったり・・・
岩場を下っている時に足を踏ん張れなくなってそのまま ゴツ ゴツ
した滑り台を滑り落ちるようにして、お猿のお尻状態になったり・・・
頭なら少しは回路が元に戻ったかも?
冗談ですが・・・ 大変です (笑)
何かの拍子にフラついて山道を踏み外し、そのまま谷川に落っこちた
事もありました・・・
幸い浅い所で命拾いでしたが、気は若くとも体力がついていかなく
なりました・・・ まさに トホホ! です (笑)
そんな危ない目にあった所は、決まって人気のない所ばかり・・・
いつも私は一人歩きなので、そんな時は ゾッ! としてしまいす。
都市近郊の箕面の森ですが、里山の南山麓の一部を除いて、まず
ケイタイがつながりません・・・
昔と違って、もう体の一部のようにして皆さんが持っているケイタイが、
全く通話不能になるのですから不安ですよね。
かなりアナログ人間な私でも、持っていますから・・・ (笑)
そこで私はいつもリュックには、チリンチリンの鈴(クマ避けですが・・・)
笛(体育の先生の吹く、うるさい金笛です)、
小さな折り形ミラー(太陽に反射させ、知らせる)、小型防災ラジオ、
それに三角巾と簡単な応急薬少々です。
箕面は低山とはいえ、自然の恐ろしさはこの8年間でいろいろ体験して
きましたので、決して侮れません。
かつて箕面観光ボランテイアガイドの皆さんが、同じように救急版を
各所に置かれましたが、いつの間にか壊されたりして見なくなり
ました。
そんな折、この「救急ポイント」(安全救急通報板)は分かりやすく
便利で安心です。
何でも 「箕面山麓保全ファンド」 の助成を受けたそうで・・・
箕面の森の主要ボランテイア団体の方を中心とした
「箕面山 救急ポイント設置実行委員会」により、
箕面山 62ケ所 に設置 されたそうです。
「箕面の森ハイキングマップ」(箕面市商工観光部作成)にも、その
設置場所が記入されているそうですから、手に入れておきます。
確か、マップは箕面駅前の「箕面観光協会」の窓口でも頂けるはず
ですよ。
ちなみに山での緊急の際には、各々に明記してある
ポイントナンバー(例えば「みのおA-1」とか)を、消防(119)へ連絡
すると、ナンバー毎に緯度、経度が測定してあり、場所確認ができる
ようになっていて、救急、事故などの緊急事態に対応できるとの事
です。
力強く、頼もしい限りではありませんか・・・
先日、私が前鬼谷をようらく台方面へ登り、途中で休憩している時に、
一人のおじさんから、山の中での事故の話を聞いたばかりです・・・
おじさんの見たのは、箕面の森の東の古参道、巡礼道付近で、
マウンテンバイクに乗った若者が、ハンドルを誤り谷へ転げ落ち、
血まみれになっていたとか・・・
また、別の日には老ハイカーが足を滑らせて骨折し、動けなくなって
いたとの事・・・
いずれもこのポイントナンバーのお陰で、8人の救急隊が駆けつけて
搬送し、事なきをえたようですが・・・
毎年スズメバチの繁殖期になると、救急車のサイレンが森に響き
渡ります・・・ 昨年も何件か新聞に載っていましたね。
細い、急な山道では、担架で運び出すのに8人は必要なのだとか・・・
私は生々しくそんな話しを聞きましたが、全く他人事ではありません。
山の事故は自己責任ですから、毎回慎重に、年を考えて、それなりに
周りに迷惑をかけないように・・・ と、改めて気を引き締めた次第
です。
事故だけでなく、森林火災や落石、地震など災害、天災などもあり、
また大雨、強風、台風後の危険個所などの緊急の防災連絡や
たまに事件などもあります・・・ 山や森の中も物騒になりましたね。
そんな時の消防(119)、警察(110)への緊急連絡時に、
その簡単、明瞭な位置確認には、この「緊急ポイントナンバー」は、
大変役に立つものと確信します。
私には、安心の感謝です。
09-4 (完)