我が生まれ故郷 信州・安曇野(あずみの)を想う!
私は、昭和26年、長野県南安曇郡の「南穂高村小学校」に入学した。 家は藁葺きの平屋で、祖母が家の前で野菜を作っていた。 国鉄大糸南腺の「豊科駅」と、篠ノ井線の「田沢駅」の中間に位置する「寺所村」に住んでいたが、父は私が2歳のとき病死し、母は父から感染した結核の為、松本の国立療養所にいて面会もままならず、私は安曇野で祖母と暮らしていた。
朝起きて、裏木戸を開けて外に出ると・・・ 目の前には万年雪を抱いた常念岳(2857m)、横通岳(2767m)、大天井岳(2922m)が正面に見え、左方面には穂高岳(3190m),大滝山(2616m)、槍ヶ岳(3180m)、右方面には有明山(2268m),遠く鹿島槍(2889m)、白馬岳(2932m)など・・・この日本アルプス連山の見事な景観は、いつも当たり前のように見ていたが、しかし子供ながら真冬の晴れた日に見上げる真っ白な山々や、春から夏にかけて・・・ また秋から冬にかけての山の移り変わりには、子供ながら何か畏敬的で神秘的なものを感じていた。
春になると田畑はレンゲ草のピンクの花で埋め尽くされ、頭上には天高くヒバリが囀っている・・・ 麦畑で新芽を踏む手伝いをしながら、なぜせっかく出てきた芽を踏むのか不思議だった・・・ 祖母は畑に種をまいている。 アルプスの山々の雪が少なくなってくると野山は新緑で溢れ、花や木が一斉に綺麗な花を咲かせ始める・・・ 生き生きとした新鮮な季節が始まるとみんな嬉しくなってくるのだった。
夏になると野菜畑にはいろんな野菜が実ってくる・・・ 大きなトマトを取って、横の小川で洗って口いっぱいにほおばったとき、目の前に大きなアオダイショウがこっちを向いていてビックリしたりものだ・・・ でもその小川では、竹で編んだザルを持ってよくどじょうすくいをした・・・ 沢山取れて祖母に持っていくと、それを甘辛く煮て出してくれたが、生臭くて嫌いだった。 家の周りにはいろんな果物の木があった。栗、柿、梅、桃、ぐみ、サクランボ、ぶどう、 くるみ、りんご、アンズ、はらんきょう(スモモ)・・・ それに名前はよく知らないが、もみの木に似た大きな木には小さな真っ赤な実がなって、それは甘くて美味しかった。 学校から帰るとそれらの木に登り木の上でよく食べてた。
梅の木にはいつも季節のなると、鳥が巣をつくり、卵を産み、やがてヒナが顔を出し、間もなく巣立っていく・・・ そんな光景を木に登り毎日観察していた。 時にはいたずら心で卵を隠したりすると、親鳥は泣き喚き必死で探している・・・ 可哀想になりまた巣に戻してやると嬉しそうにしている・・・ いつか孵ったヒナを鳥かごに入れて縁側に置いていたら、私がせっかく虫を捕まえてやっていたのになぜか食べない・・・ ところが元気なのだ・・・ ある日、そ~と見ていたら、なんと親鳥がせっせと餌を運び、鳥かごの外からヒナに餌をあたえていたのだった。 その母子離れ離れになっている光景に自分を重ね合わせ可哀想になり、すぐ鳥かごから巣に戻してやった。
小川の土手や、田畑のあぜ道にはセリ、ナズナ、よもぎ、つくし・・・ また、少し入るとふき、アサツキ、イタドリ、ウド、ゼンマイ、わらび・・・ など、沢山の食材があり、祖母と袋を担いで、散歩がてらよく採りに行った。 子供ながら何とまずいものかと思っていたが、大人になって飲み屋でそれらが出てくると、以外に美味しく懐かしかった。 畑の横には桑畑があって・・・ もともと桑の葉はまゆを取るための蚕(かいこ)の餌だが,私は桑の実が大好物・・・ 口の周りを紫にしてほおばったものだ。 そして蚕が糸を出してサナギになると、それはそれで甘辛く煮て、また食卓に上る。
田んぼにはタニシが沢山いた・・・ これも茹でておやつになった・・・ サザエのごく小さい感じで、小枝でなかから引っ張り出して食べた。 大人になって飲み屋でこのタニシがでて、海のもの・・・ と、大将が言っていたのでその気で食べたが味は一緒だった? 引っ張り出すというと「蜂の子」もよく食べた・・・ 屋根の軒下に大きな蜂の巣があった。 みんなで棒で叩き落し、はちが去った後で巣の中にある鉢の子を小枝で取り出して食べるのだが、なにぶん蜜を吸って子に与えているのか、とにかく甘くて美味しいのなんの・・・ でも失敗すると大変で、蜂の逆襲を受けて子供達は頭から蜂に刺され大事になる・・・ でもやめられないんだな。
秋になると、学校から帰るとすぐ友達と腰に袋を下げて稲穂の間に入りイナゴを採りに行く・・・ 袋は飛び跳ねるイナゴですぐいっぱいになった・・・ それはまた祖母が炒めてくれた。 フライパンの中でピヨンピヨンと跳ねる上から蓋をして、仕上げに醤油をすこし入れるだけだが、イナゴの足がすこし硬かったが、バリバリとよく食べた。 大阪に来て初めてイナゴの佃煮が百貨店で売っていたので食べてみたが、高くて不味かった思いがある。
小川にはコイやフナもいたのでたまには魚も食卓にはあったが、信州は海の無い山国なので、大概は干物や塩づけや味噌づけの魚が多かったな・・・ そんなわけで、終戦直後にもかかわらずひもじい思いもせずに、田舎の大自然のなかで伸びのびと育ってきた・・・
近くの寺所神社の境内では、季節ごとにいろんな御祭りがあり、夜店など出ると,それはそれは嬉しかった。 布を丸くくるめて糸で巻きつけた布ボールで、よく野球をやったものだった。 その後で、秋などは境内の裏にあるマツタケやシメジダケなどを採って帰り、祖母の料理の材料を調達したり・・・
夏祭りの後で、飛んでる沢山のホタルを追いかけて川に落ちたり・・・ それでもずぶ濡れになりながらも太いネギの中にホタルを入れて持ち帰り、蚊帳の中に放ち・・・夏の風情を愉しんだりしていた。 落ちたと言えば・・・ あちこちにあった肥えつぼに落ちて、文字通りクソまみれになったこともあったな・・・ 井戸の水を汲みながら、ブツブツ言いつつ私を洗う祖母の顔が可笑しかった・・・
しかし、母のいない家は寂しかった・・・でも、たまに母方の祖母がいる松本へ行く事ができた・・・ 私は自分がこの母の実家で生まれたことを知っているので我が物顔だったが、父が亡くなって不憫だと思ったのか・・・? 母の3人の弟と妹がその後もよく面倒を見てくれた。
安曇野の祖母は、住んでいる田舎家の端の馬小屋を、あるときから頼まれて豆腐屋に貸していた。 その豆腐屋のおじさんが松本まで豆を買出しに行くときに、私をよく連れて行ってくれた。 それは田沢から梓川沿いに2~3時間かけて歩いていったが、山には藤の花がきれいに咲いていたし、梓川の急流では釣りをしている人がいた。 おじさんは自転車にいっぱいの闇米を乗せ、おまわりさんがいたらその検問を避ける為に荷物の上に子供の私を乗せてごまかすのだが、ある日 前からおまわりさんが来て、おじさんは慌てて私と共に前の家に飛び込み隠してもらったりしていた・・・ でも優しい良いおじさんだった。 おじさんが豆屋さんに行っている間は、松本の祖母と楽しく過ごし、母の匂いを感じることができて、そんな時間が大好きだった。
私は8歳のとき、大好きだった祖母を田舎に残して大阪に来た。 母は病気から回復し元気になっていた。 そして母は母と共に同じ病院で療養していた人と一緒に所帯を持った・・・ それはかつて母が幼児の私を背負い、病院で亡き父の看病をしていた母の姿を知る人で、父の亡骸を共に担いでくれたと言う人だった。 私にクリスチャンの新しい父ができた。 そして養父となった父の仕事の関係で大阪に引っ越してきたのだった。 憧れの蒸気機関車に乗り、いくつものトンネルを抜け石炭のススで真っ黒になった顔で大阪に着いた。
着いた大阪の西淀川は、敗戦から8年経っていたとはいえ,まだ焼け跡が残り、軍需工場があったらしく米軍に爆撃され廃墟となった建物が散乱し,今までいた田舎の風情の落差にがったりした・・・ 田舎に帰りたい・・・ 転校した「大阪市立大和田東小学校」で初めてコンクリートの校舎の太い柱を見たときもビックリした。 住んだ家の周りには樹木も草花も何も無かった。殺風景なバラックの家が並んでいるだけだった。 何度も田舎に帰りたいと思った。 でもそれ以上に二度と母の傍を離れたくなかった。 それに二人の弟が生まれ、兄貴となっていつしか故郷への想いも遠のいていってしまった。
そうして中学、高校、大学、サラリーマン、結婚、会社経営23年間を経て、50代前半で引退、早い隠居生活に入り、恵まれた生活環境にもかかわらず、なぜか急にライフスタイルが変ったからか、心が空虚になってしまい・・・ うつうつとした心の病にいたり・・・ やがて箕面の森に魅せられ、心癒され・・・そんな訳で、再び半世紀を経て、心の中にあの懐かしい故郷の原風景が蘇ってきたのでした。
晩年、父と共に信州に帰った母は今、あの日本アルプスの雄大な山々を背景に、国宝松本城を望む城山の、きれいな「教会墓地」で、二人仲良く眠っています。 故郷(安曇野)は、遠き(大阪)において想うもの・・・まさに 「三つ子の魂、百まで」 ですね。 2008 11/9
(* これは、自分の子供たち、孫たちへの書き遺し文の一つです・・・) (完)