京の秋を満喫した。そして人いきれにも。11月24日、出町から東へ銀閣寺、哲学の道を南に永観堂から南禅寺へと赤く染まる有名処を訪ねた。修学旅行生でゴッタがえしていた銀閣寺は早々に辞し、一路思索?をかねて哲学の道を歩く。女房曰く「桜の時は抜群、緑の時は最高、だけど紅葉の今はもっとイイ。今度、雪の道を歩きたい」「一体いつがええねん」と僕、何度か来ているらしく要するにいつ来ても良いところと言いたいらしいが、幾多郎さんの思索精神を偲んだ上での発言かどうかは疑わしい。僕は全く初めて歩くのだが、あの疎水沿いの細い道を対面通行で石畳や地面が見えないほど人々の群れ、我が名機キャノンイオスも絶好の場面を撮るチャンスがない。時に英語、中国語、韓国語が聞こえ、さすが国際都市KYOTOであることを実感。が、「思索」という言葉からはほど遠い印象を持ったのは僕だけだろうか。そうこうして永観堂に着いた。
ビックリした、驚いた、驚嘆した、「紅葉の美」がこれ程のものとは…。高雄や東福寺の紅葉も凄いがここ永観堂も凄い。人の群れも凄い。最高のチャンスに巡り会うことができ一瞬ラッキー!も束の間、お堂の中や仏間も全て人いきれ、寺宝の拝観どころではない。阿弥陀如来像(みかえり阿弥陀)もゆっくりお顔を拝することもできない。もっとも振り返っておられるので正面からは見えるはずはないのだが。有名な阿弥陀如来の「永観、おそし」と振り返って声をかけられた伝承も今はあまりに参拝者の多さに阿弥陀如来が「イヤイヤ」をされているようにしか見えない。されど「もみじ」だけは平安の雅を感じることが出来た。都の一角、白壁に映える紅葉、境内の池に映る紅葉、堂宇に懸かる紅葉、平安貴族の優雅な生活の一端がこの真っ赤な紅葉を透かして見え隠れするようだ。
日本には古から色の表現に素晴らしい感性がある。緋色、紅色、紅、朱色、深紅、臙脂、唐紅、茜色、紅蓮、丹色、これらはいわゆる赤を表現しているが、永観堂の紅葉には豊かなありとあらゆる赤がちりばめられている。陽に透ける赤、重なり合う赤、水に映る赤、散り染めた赤、素晴らしい赤に堪能した永観堂だった。女房曰く「美味しい赤はもう堪能、次は美味しい白はどぉ」ということで南禅寺境内の湯豆腐屋さんで遅い昼食をこれまた満喫。紅白のめでたい一日でした。
ビックリした、驚いた、驚嘆した、「紅葉の美」がこれ程のものとは…。高雄や東福寺の紅葉も凄いがここ永観堂も凄い。人の群れも凄い。最高のチャンスに巡り会うことができ一瞬ラッキー!も束の間、お堂の中や仏間も全て人いきれ、寺宝の拝観どころではない。阿弥陀如来像(みかえり阿弥陀)もゆっくりお顔を拝することもできない。もっとも振り返っておられるので正面からは見えるはずはないのだが。有名な阿弥陀如来の「永観、おそし」と振り返って声をかけられた伝承も今はあまりに参拝者の多さに阿弥陀如来が「イヤイヤ」をされているようにしか見えない。されど「もみじ」だけは平安の雅を感じることが出来た。都の一角、白壁に映える紅葉、境内の池に映る紅葉、堂宇に懸かる紅葉、平安貴族の優雅な生活の一端がこの真っ赤な紅葉を透かして見え隠れするようだ。
日本には古から色の表現に素晴らしい感性がある。緋色、紅色、紅、朱色、深紅、臙脂、唐紅、茜色、紅蓮、丹色、これらはいわゆる赤を表現しているが、永観堂の紅葉には豊かなありとあらゆる赤がちりばめられている。陽に透ける赤、重なり合う赤、水に映る赤、散り染めた赤、素晴らしい赤に堪能した永観堂だった。女房曰く「美味しい赤はもう堪能、次は美味しい白はどぉ」ということで南禅寺境内の湯豆腐屋さんで遅い昼食をこれまた満喫。紅白のめでたい一日でした。