
(2019.02.09訪問)
吉野路大淀町を目指して大和路号は走っています。目指すは吉野の名刹世尊寺。吉野の大寺と呼ばれる世尊寺は1400年の時を刻ん
だその面影を感じさせる遺跡を残し、往時の寺勢を偲ぶことの出来る悠久のお寺。ひたすら南へ南へと橿原、飛鳥、壺阪と吉野路
R169を行くと、吉野川に突き当たりそこが大淀町、左に方向転換、しばらく走ると左に折れる指示、なだらかな坂道を上って行く
と目指す比曽寺跡世尊寺に到着です。
▼山門左に史跡比曽寺跡の石標。

[ 世尊寺 ]
●山号 霊鷲山(りょうじゅせん)
●寺号 世尊寺(せそんじ)
●宗派 曹洞宗 (そうとうしゅう)
●開創 用明天皇2年 (587年)
●開基 伝聖徳太子
●本尊 阿弥陀如来坐像
▲奈良県吉野郡大淀町比曽762番地 0746-32-5976
▲拝観料 300円 朱印300円
▲近鉄「大和上市駅」から車で10分
▼比曽寺から世尊寺への縁起が語られています。

世尊寺縁起
聖徳太子が父用明天皇の勅を受け、建立された比曽寺がその緒と伝わるそうです。このお寺は比曽寺、法興寺、四天王寺、法隆寺と
共に聖徳太子建立四大寺院の一つであり往時は隆盛を極めたと云います。その後比曽寺、吉野寺、現光寺、栗天奉寺、世尊寺と寺名
の変遷はいかにこのお寺が栄枯盛衰を繰り返したかが理解出来ます。武家政治の台頭で情勢の激変と、吉野という僻遠の地のため無
住荒廃を辿り、江戸中期雲門即道禅師が伽藍整備図り、曹洞宗寺院として霊鷲山 世尊寺として今の姿になったと伝えています。
日本書紀や残されている瓦などから少なくとも飛鳥時代(7世紀後半)には存在していたと推測されているお寺です。
▼旧道に面して山門があります。

▼山門から境内を見ますと、中門と本堂が一直線に見渡すことが出来、相当広い境内のようです。

▼中門への参道。

参道中途左右に塔礎石が、往時を偲ぶ三重塔跡。
▼東塔跡。往時の東塔は豊臣秀吉により伏見城に移され、その4年後家康により大津三井寺に移建、現在の塔がそれです。

▼現在の三井寺三重塔。この塔がかつての世尊寺の三重塔。

▼西塔跡。西塔は戦乱によって焼失したと今昔物語に記されているそうです。

▼中門です。

▼霊鷲山の山号が揮毫された大きな偏額が掲げられています。

▼鐘楼。

▼庫院と称していますが庫裡のことでしょう。横に長い建物で、瓦の量も半端じゃないでしょうネ。

▼中門を中心にした廻廊内の広場。

▼大師堂。本尊聖徳太子像。桁裄3間、梁間4間、寄棟造、本瓦葺。

▼お堂前面にやたらタコ糸が張り巡らせてあります。鳥除けの糸と説明されていましたがよく判りません。

▼法王殿と書かれた大師堂扁額。

▼この空模様、折角の黄色が冴えません。

▼こんな方もいます。

▼敷石が一直線、その先に本堂。

▼本堂。桁裄5間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺、3間向拝付、昭和43年 (1968年) 再建。
旧比曽寺の講堂跡に建てられています。本尊は阿弥陀如来坐像。

▼墨跡鮮やかに知恩報徳と書かれた本堂扁額。

▼本堂内陣。チラッと見えますのが本尊阿弥陀如来坐像。

▼本尊阿弥陀さん。やや笑みを含んだお顔は「吉野路の微笑み仏」と呼ばれているそうです。


{この写真はネットから借用)
▼脇壇の十一面観音菩薩立像。この十一面さんが素晴らしい、
お顔は後補らしいが、躰部は切れ味のいい彫の冴えを魅せています。
これが真近で拝見出来るのです。

▼お顔です。後補と云っても鎌倉期の彫と云います。

▼もう一度本堂。

▼十三重石塔。

▼石塔軸部四面には如来像が刻されています。

▼芭蕉の句碑。貞享五年 (1688年) 芭蕉がこのお寺を参詣した時、壇上桜を眺めて詠んだ句。
世にさかる 花にも念佛 まうしけり

▼壇上桜も形なしです。

山門右側に天照大神社が鎮座。祭神天照大神。世尊寺鎮守社、旧比曾村の氏神。
▼鎮守社鳥居と前方拝殿。

▼拝殿。

▼鎮守社本殿。

▼ご朱印です。

旧比曽寺はかなりの寺勢を誇った寺であることは、今に残る旧伽藍の礎石を見てもよく分かります。東西両塔、金堂、講堂とそれを
囲む回廊状から薬師寺式伽藍配置の大寺院であった往時の盛況が偲ばれます。栄枯盛衰は歴史の流れとは云え、今に残る世尊寺は整
然と法灯を守り、往時の寺勢を僅かながらも伝えている気がします。
パラパラときたり止んだりの繰り返し、吉野まで足を運んだ甲斐なしの世尊寺でした。写真のヘタさ加減ご容赦を。
これにて世尊寺 オ シ マ イ