(2012.12.16訪問)
久々の葛城古道を走っています。桜の時期に一度訪ねた千体地蔵の九品寺へ向かいます。
一説によれば、大和朝廷よりも古く、この一帯を支配していたと云われる葛城一族、その葛城王朝夢の址、
葛城山麓は今も古寺古刹古社が点在し、行基さんや役行者が活躍した古は戒那千坊と称されるほどの寺々が
甍を並べたと云います。戒那千坊の一寺か、九品寺はそれはそれは綺麗なお寺です。
[ 九品寺 ]
●山号 戒那山(かいなさん)
●寺号 九品寺(くほんじ)
●宗派 浄土宗
●勅願 聖武天皇(しょうむてんのう)
●開基 行基(ぎょうき)
●開創 天平時代(729?749年)
●本尊 阿弥陀如来坐像(重文)
▼県道30号沿に建つ石標。左脇の道が九品寺へのアクセス、すぐソコ。
▼山門。
▼参道。冬枯れに負けない手入れの行き届いた境内は実に綺麗、清々しい空間です。
▼石段手前にも石標が。
▼清浄水と刻された手水鉢。
▼鐘楼。袴腰、切妻造、本瓦葺の立派な鐘楼。梵鐘は高1.8m、鋳造慶長十五年 (1610年)
▼地蔵堂。本尊地蔵菩薩立像。
▼本堂。桁行五間、梁行四間、入母屋造、本瓦葺、正面一間向拝付。明和五年 (1768年) 再建。
本尊 阿弥陀如来坐像(重文)。像高123cm、平安後期。
平成六年堂宇境内大修理が行われたと聞きました。
本尊以外観音菩薩や地蔵菩薩が祀られているそう、残念ながら入堂は出来ませんでした。
▼本堂扁額。
▼本堂前に行基さんの像が植栽に囲まれて、まるで説法をしているよう。
さて、このお寺を有名にしている境内裏山の千体地蔵を訪ねましょう。
境内には1700体を越える石仏が祀られているそうで、南北朝時代この地を支配していた楢原氏の兵が合戦寺
に身代わり仏として奉納したものと伝わるそうです。
▼本堂裏手の参道沿いに石仏が並べられています。相当風化しているのがうかがえます。
▼整然と並んでいます。なにか土止めのための感がしないでも。
▼曲がりくねった参道石段に秋の名残。
▼石段脇にも石仏が。
▼参道左手に本堂大屋根が真新しい幾何模様で迫ってきます。
▼本堂の甍越しに奈良盆地国中(くんなか)を望むと御所市街から橿原市街、大和三山が…。
▼散り忘れ楓が、冬枯れに色を添えているよう。
▼整然と並べられた石仏ピラミッド。斜面を切り取った観客席に阿弥陀さんとお地蔵さんを中心に石仏が並
び、見上げるボクたちはまるでプレーヤー、無数の目の注視では悪さはできませんネ。
▼階段にギッシリ。
▼ほとんどの石仏は目鼻顔立ちは風化のためかハッキリしません。
山門両脇に庭園「十徳園」が広がり、北側は西国三十三カ所の石仏観音、板東三十三カ所の石仏観音六十六
体が安置された霊場を再現しています。南側は一願不動尊を祀り、池泉回遊式の庭園が広がって、季節を主
張する楓や桜、ツツジが、植栽されています。
▼西国三十三カ所の石仏観音。
▼西国三十番札所、宝厳寺は琵琶湖を表す凹地に竹生島、ニクイ演出。
▼池泉回遊式の庭園への入り口。
▼池畔の丸く刈り込まれたツツジ、花咲く頃はさぞやでしょう。
▼池畔。
▼池畔。
▼ぽつんと傘形の灯籠。
▼やや奥まったところに矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を従えた不動明王の石像
が睨みをきかせています。前には護摩壇が。
▼不動明王のアップです。
▼左、制多迦童子、右、矜羯羅童子。
▼駐車場横の広場にこんな灯籠が。マナコのように感じるのはボクだけですかネ。
▼その眼から覗いた御所市街。
▼初秋の頃彼岸花咲き乱れる空き地は、今はただの草茂る広っぱ。そこから見た大和三山です。
左耳成山、中央畝傍山、右香具山。
きっと、かの磐之媛も乱れる心の慰みをこのような高台から三山の景観を眺めていたんでしょうか。もっと
も父葛城襲津彦の屋敷はこの地よりもう少し南、高宮の地と伝わりますが。
▼カメラを南に向けると、まだ残りすすきが風に揺らいでいました。
▼帰りに見た二上山。この山麓を縫う竹内街道を大阪へ帰ります。
九品寺の石標見かけたのですが通過してしまった
行けばよかった…。
不動明王のお顔 珍しい表情されてますね~
このお寺は、檀家とのコンビネーションが素晴らしいそうで、境内は常に美しく寺檀共同管理され、以前の大修理時の檀家の協力金の凄い数字が山門前石柱に刻まれています。