塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

ディエゴ・とエメルソン・レオン

2009-10-03 16:50:48 | 日記
 もし皆さんが、仕事上誰からも敬意を払ってもらえていないと感じたらどうしますか?
 自分は懸命に工夫して与えられた仕事をこなしているのに、聞こえてくる声は批判まかりで嫌になる。
 自分は困っている人がいたら手を差し伸べているのに、いざ自分が躓いても誰も助けてくれない。
 こんな状況が続いたら皆さんどうしますか?僕ならこう思います。「全てを自分で行えばいい。」
 2010年ワールドカップの南米予選、アルゼンチンが5位と低迷しています。そのため指揮をとるマラドーナの手腕は疑問視され、ファンの間では退陣要求も高まっているようです。しかし間違ってはいけないのは、マラドーナは辞任したバシーレの後釜として招かれたのであって、予選を通じてアルゼンチンは好調を維持できていないことになります。
 バシーレの基本布陣は4ー3ー1ー2。「1」のポジションを務めたのはリケルメでした。しかしマラドーナ就任後ふたりの間に諍いがおきてしまい、リケルメは召集の対象外になりました。そこでマラドーナが召集対象としたのは、ファン・ベロンでした。
 所属するエストウディアンデスをコパ・リベルタドーレスの優勝に導いたベロンと、リバプールのマスチェラーノ、そしてメッシとアグエロ。今のマラドーナ政権下で軸となる選手達の顔触れです。
 僕が思うに、アルゼンチンはドイツを手本にすべきだと思います。ホスト国ドイツが自国大会の為に招いた指揮官は、ユルゲン・クリンスマンという、まさにリスクを背負ったものでした。クリンスマンはドイツ以外にも、イタリアとフランス、イングランドで生活経験があるため、語学に堪能で様々な場数を踏んでいました。またそれまで暮らしていたアメリカでは、最先端の科学トレーニングも目にしていましたが、彼には決定的に不足している点がありました。「戦術とメディア対策」のふたつです。
 その不足分を補う為に指名されたのが、ヨギアム・レーブとオリバー・ビエルホフのふたりです。
 まずビエルホフがメディア対策の一環として、広報を務め代表チームを喧騒から守る事に成功します。そしてレーブがドイツに適した戦術を植付け実行に移す。実際クリンスマンをレーブの手腕に敬意を抱いていて、彼のトレーニングに口を挟むことはなかったそうです。
 かつてリベロを配置した3ー5ー2に、異様なまで固執したドイツは彼方に消え、連動性の高い4ー4ー2が生まれます。そして結果は3位入賞です。クリンスマンが退き、レーブ体制で臨んだ2008年欧州選手権は準優勝。ここにチームを躍進させるヒントが隠されていますね。
 1.指揮官は選手交代枠3と選手の体調管理を含め、戦術に明るくなくてはいけない。
 2・もし自分に補えない点があるなら、2頭ないし3頭体制を敷く事も効果がある。その際常に話し合いの場を設け、他人の領分にむやみに口をださない。
 マラドーナを退陣させる事を、アルゼンチンサッカー協会は考えていないでしょう。実はマラドーナはカルロス・ビラルドをアドバイザーとして迎え入れていますが、1986年と2009年の今では、サッカーの質と環境は大きく異なっています。
 ですから本当にマラドーナ、そして代表を助けたいのなら、2009年の今が旬の人間を、招きいれるべきでしょう。僕はディエゴ・シメオネ、ホルヘ・ラポルタあたりが頭に浮びます。
 それでもマラドーナは最後までひとりで指揮を執るでしょう。アルゼンチンはこのまま、マラドーナと運命共同として、ワールドカップの予選を戦う他ありません。
 そして隣国ブラジルも、2002年のワールドカップ予選において、想像し得ない苦戦に遭遇していました。その予選の中で最も評判が悪かった指揮官が、エメルソン・レオンでした。どうしてレオンは評判が悪かったのか。続きは次回で。
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憎らしいほど強かった90年代のACミラン(3)

2009-10-03 12:35:28 | 日記
 1991年から94年にかけて、ミランはリーグ3連覇を達成し、世界にその名を轟かせます。日本では丁度Jリーグ創設とワールドカップ予選の敗退の時期を重なります。ワールドカップ出場選手の多くがイタリアに存在する中、その圧倒的な知名度を誇るミランは、日本のファンの多くを惹きつけたものです。
 しかしそのミランも、97、98シーズン、誰も予測し得ない低迷期を迎えます。いいえ、むしろ崩壊という言葉が正しい。それくらいひどい2シーズンでした。
 97シーズンは11勝10分け13敗の11位。
 98シーズンは11勝11分け12敗の10位。
 この90年代、宿敵インテルはクラブ史上最低の低迷期であり、順位表では常にミランの下にいましたが、この2シーズンは例外的に、ミランのほうが下にいたのです。残念ながらインテルの優勝はありませんでしたが。
 では何故ミランはここまでの低空飛行を余儀なくされたのか。まず理由のひとつに、マルディーニの右サイドバックへのコンバートが挙げられます。
 ミランフロントはマルディーニがいるにも関わらず、ドイツ代表のツイーゲとオランダ代表のボバルデという、左サイドの選手を獲得します。98シーズンのことです。実は前年に右サイドバックの補強策として、オランダ代表レイツハーを獲得しましたが、満足できる補強では無かった。
 つまりミラン首脳陣は、マルディーニほどの男なら、コンバートを受け入れると同時に、早い段階で新しいポジションに馴染むであろうと予測したのですが、これが大失敗だった。
 このコンバートの失敗によって、僕はどんなに素質のある人間でも、適切な役割が与えられこそ光り輝く事、新しい環境を受け入れるには、相応の時間が必要であることを大いに学びました。また右サイドへのコンバートを告げられた時、マルディーニはどんな心情だったのだろうかと。バレージ同様ミランの顔であったマルディーニ。チームの為を思い新しいポジションを受け入れたのでしょうが、内心忸怩たる思いであったのではないだろうか。僕はそう推測しています。
 ふたつ目の理由として、この時期ミランの外国人選手の補強が上手くいかなかった事、そしてバレージにタソッティ、ドナドーニとシモーニといった、ミランの中軸が引退、そして移籍をしていきます。
 しかし獲得した外国籍の選手達が、ミランというよりイタリアのサッカーと波長が合わなかった。同時にファンは勝つミランを要求するため、外国人選手は悠長な時間を与えられない、結果がついてこないため、即放出という悪循環です。
 ミランはこの2シーズン、ウルグアイ人のタバレスからカペッロ、サッキと3人の指揮官を迎え入れますが、効果的な手を打つ事ができませんでした。
 エドガー・ダヴィッツ
 ビンストン・ボバルデ
 ミヒャエル・レイツハー
 パトリック・クライフェルト
 クリストフ・デユガリー
 イブラヒム・バ
 クリスチャン・ツイーゲ
 主だったこの時期の外国人選手の顔触れを並べて見ました。上3人がオランダ代表、続く2人がフランス代表、ツイーゲはお話したようにドイツ代表。凄い顔触れです。
 もしかすると、選手達は「イタリアでも俺たちはやれる。」という、過度の自負をもちあわせていたのかもしれません。言い換えれば「驕り」ですね。
 特にオランダ人の3人は、前所属のアヤックスで欧州チャンピオンと世界チャンピオンに輝いている上、20代前半と非常に若かかった。謙虚になれという方が無理だったのでしょうね。
 しかし99シーズン、ミランば再びスクデットの美酒に酔いしれます。もちろんマルディーニは左サイドを主戦場にし、イブラヒム・バを除く、上記の外国人選手たちは、その姿を消していました。
 そして97年を最後に現役を退いたバレージの後を受け、マルディーニが名実ともにミランの象徴となります。そのマルディーニの時代は今年2009年まで続くのです。
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