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3月21日、信州上田にお彼岸の墓参り、・・・スノーモンキーも見たかったし、真田丸を追いかけて真田の郷に行きたかったのですが、寒くてギブアップ
代わりに1月3日、上田市真田町長の「真田の郷」を尋ねた義兄夫妻の写真がありましたのでそれを公開します。
・・・・・上田六文銭の写真帳・・・・・
※ブログ「比企の丘」のギャラリー公開。
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真田本城(松尾城とも)です。何もありません。ただこんもりとした山があるだけです。標高890m。
真田一族・・・戦国時代、信濃国海野(現在の東御市のあたり)の土着豪族海野氏の庶流、真田の郷、古松尾城を拠点に。武田信玄に敗れて上州に逃れるが山本勘助のあっせんで信玄の配下になりふたたび真田に。真田本城は1530~1550年の間に築城といわれるが定かでない。真田家二代昌幸が1583年上田城に入るまでここに。とはいっても山城であり遺構もないようで、戦時のときだけの拠点でしょうね。ちなみに「真田」という地名は「実田」と書かれた文書があり、「早苗田」が転訛していったものといわれます。地名なんてそんなものです。そして苗字は地名からつけられたものが90%以上といわれます。苗字なんてそんなものです。
真田本城から真田の郷を見る。
「真田山長谷寺」(ちょうこくじ)。1547年真田家を興した真田幸隆が開山。1583年上田城に入った昌幸が整備して菩提寺に。たびたびの戦火、火災、天災などにより焼失、破砕、現在の本堂は1978年に再建されたもの。1622年真田家三代信之が松代藩転封にともない松代に真田山長国寺(ちょうこくじ)を建立して移骨。そのときから長谷寺は長国寺の末寺に。
アーチ状の石門、六文銭が彫りこまれています。いつごろんものか不明ですが創建のころといわれます。
中央が真田幸隆、左が幸隆正室、右が昌幸の墓、
中央が真田幸隆、左が幸隆正室、右が昌幸の墓、
※撮影日は1月16日。
さて「真田丸」です。NHKテレビの大河ドラマを見てないので何をテーマにしているのかわかりません。
戦国時代から江戸時代に、真田一族がいかにして家名をつないだか。それがテーマなんでしょうか。
初代、真田幸隆は土着豪族の庶流、上杉、武田、北条、がひしめく戦国時代を遊泳して家名を興す。二代目昌幸は幸隆の三男、甲州武田信玄の家臣武藤某かの養子になって優秀な武将に、長男、次男が長篠の戦で戦死のため、上田に戻りに真田家を継ぐ。テレビの主人公は昌幸の二男信繁(幸村)、この人は大坂の陣で大活躍したらしい。講談の世界では幸村の家来衆の眞田十勇士・・・猿飛佐助、霧隠才蔵、三好青海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎・・・が大活躍します。
上州沼田城主の長男信之を川方に、上田城主昌幸、次男信繁は豊臣方に加勢。どちらが勝っても真田家の家名が続く・・・と講談では語られています。
真田家の旗印「六文銭」・・・三途の川の渡り賃。
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