5月10日、久しぶりの渡良瀬遊水地です。
栃木県下都賀郡の旧谷中村役場あと・・・旧谷中村・・・いまから103年前の1912年強制収用されて完全に消滅した村。
渡良瀬遊水地3300㌶、周囲30㎞、東京のJR山手線の中とほぼ同じ。
3月の野焼きから2ヶ月・・・葦が青々と茂っています。かつては反当たり8俵のお米が収穫できる豊饒の地でした。
渡良瀬川最奥の足尾銅山の鉱毒を封じ込めるための遊水地の工事がはじまったのは1912年。
谷中村のいまは不毛の草原です。
オオヨシキリが縄張り宣言をしてます。
「行行子」(ギョーギョ―シー)と鳴くのだそうです。「行行子」はオオヨシキリの別名で夏の季語。
谷中村消滅の顛末を書いた本です。
荒畑寒村著「谷中村滅亡史」(岩波文庫1999年刊)
栃木県下都賀郡の旧谷中村役場あと・・・旧谷中村・・・いまから103年前の1912年強制収用されて完全に消滅した村。
渡良瀬遊水地3300㌶、周囲30㎞、東京のJR山手線の中とほぼ同じ。
3月の野焼きから2ヶ月・・・葦が青々と茂っています。かつては反当たり8俵のお米が収穫できる豊饒の地でした。
渡良瀬川最奥の足尾銅山の鉱毒を封じ込めるための遊水地の工事がはじまったのは1912年。
谷中村のいまは不毛の草原です。
オオヨシキリが縄張り宣言をしてます。
「行行子」(ギョーギョ―シー)と鳴くのだそうです。「行行子」はオオヨシキリの別名で夏の季語。
谷中村消滅の顛末を書いた本です。
荒畑寒村著「谷中村滅亡史」(岩波文庫1999年刊)
荒畑寒村(1887~1981年)が1907年20歳の時に書いたもの。造船工であった寒村が行商をしながら旅をして田中正造の案内で鉱毒にあえぐ農民の苦しみをつぶさに見て歩き稿をおこしたといわれる。谷中村村民が土地収用に抵抗する1907年平民書房から発刊、たちまち発禁処分に。
20歳の若者の書いた書ですが「公害と開発」「国家と企業」の関係を告発した不滅の書です。
帰りたくても帰れない不毛の草原。
いま‥・この時代に・・・重なり合う・・・もう一つの不毛の大地が見えてきます。
足尾銅山と渡良瀬遊水地、そして「田中正造」の年譜を追ってみました。
1602年 足尾で銅の採掘開始。
1877年 元小野組古河市兵衛が経営を引き継ぐ。
1885年 鉱毒被害が新聞報道。
1897年 田中正造、国会で鉱毒の害を質問演説。
1900年 田中正造、演説「亡国に至るを知るらざれば、これすなわち亡国の儀につき」
1901年 国会議員を辞す。天皇に直訴を計画するも阻止され狂人として扱われる。
1902年 渡良瀬川の流域に鉱毒沈殿、遊水地計画が。谷中村が候補地に。
1904年 田中正造が谷中村に移住。
栃木県が堤防工事名目で堤防破壊。谷中村買収開始。地価は1/5。
免租により選挙権(公民権)を失効。つまり村長もいなくなるわけです。
1906年 強制廃村。
1907年 土地収用法、強制執行、居住を続ければ犯罪者扱い。
1911年 北海道佐呂間町栃木地籍に移住(16戸137人)。
1912年 土地買収額を5割増しに判決。地価1/5の5割り増し?
遊水地の工事始まる
1913年 田中正造死去。
1973年 足尾銅山閉山。
1976年 谷中湖着工、1989年完成。
1998年 渡良瀬遊水地がほぼ現在の姿に。
100年を経てなお不毛の谷中村・・・70年経って帰島の叶わないマーシャル群島ビキニ環礁の人たち、1986年のチェルノブイリ原発事故、ふるさとに帰れない人たち。
わからないことが多すぎます。
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