比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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冬の信濃路・・・旧北国街道・・・旧道に忽然と・・・「海野宿」・・・エピローグ

2018-01-31 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

1月12日、ふたたびの東御市本海野「海野宿」。昨年の11月29日以来です。
江戸時代、德川幕府は1601年から7年かけて五街道を整備、続けて中山道追分宿から分れて北信濃、上越、越中、加賀に向かう北国街道を整備、1625年終了。北信濃、上越、北陸の大名の参勤交代の道、善光寺への信仰の道、佐渡金山の金塊搬送の道です。
追分宿から分れて小諸宿、田中宿、海野宿、上田宿へ・・・

海野宿」鳥瞰写真。右はしなの鉄道(旧JR信越本線)、街道の端に見える森の白鳥神社のそばに駐車場。、左に黄金色に実る稲田、千曲川。今は千曲川沿いの白い道がバイパスになっています。
奇跡のように江戸時代の匂いが残された街です。江戸時代大きな火災がなかった、明治時代の戊辰戦争などの影響がなかった、宿場街から養蚕の村へスムースに転換した、鉄道駅「田中駅」と「大屋駅」の中間に位置し急激な市場町への変動がなかった、戦災がなかった・・・いろいろな要因がこの街を守りました。

※写真は海野史研究「郷土の歴史」サイトより。

さて、「海野宿を尋ねて」のシリーズは今回で・・・海野宿に残る遺跡などを尋ねて終章にしたいと思います。

本陣跡です。長屋門だけです。その横に「進善学校及び風戸学校跡」の石碑が。
明治初期、学校制がはじまったときの学校のあとでしょうか。

海野宿歴史民俗資料館・・・です。寛永年間(1624~1645年)に建てられた旅籠だそうです。

一茶句碑「夕過ぎの臼の こだまの寒さかな」・・・文化9年(1812年)海野宿。

舐め石」・・・宿場を往来する駄馬に塩を与える石。

百万遍供養塔、馬頭観世音、庚申塔の石碑です。

媒地蔵」(なかだちじぞう)・・・縁結地蔵、戦国時代に建立、江戸時代に地蔵時として開山、1951年焼失、廃寺に。

福嶋屋」・・・お蕎麦屋さんです。宿場内には喫茶の店、お食事の店、お蕎麦屋さんがありますがさりげなく看板が下げられています。
2階の窓を見ると「蚕室造り」の家のようです。
※撮影日は1月12日。
※信濃路を訪ねる機会がございましたらぜひ寄ってみてください。

※コメント欄開いています。


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