比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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雪の釧路で・・・啄木が歌った・・・雪あかりの町

2012-03-20 | 道を行く 北海道
3月6日の朝、雪が降っています。想定外です。
朝食をすませ雪の降る街を文学散歩に出かけました。幣舞橋を渡り釧路川左岸を少し港方面に。
雪が降りしきり朝なので雪掻きもしてない道は怖いです。

写真は釧路駅、釧路駅を真っ直ぐ釧路川の方向に進めば幣舞橋。幣舞橋を渡り写真左に歩けば入船地区。港文館という建物があります。1908年建築の釧路新聞社旧社屋(現北海道新聞の釧路支店の前身)。

石川啄木のブロンズ像と歌碑が建っていました。

     さいはての駅に下り立ち
       雪あかり
     さびしき町にあゆみ入りにき



1908年1月21日釧路駅に下り立った啄木は木造の207mの愛北橋(幣舞橋)を渡り釧路新聞紗に向かいました。22歳のときです。76日間でこの地を去ります。釧路の町に電気が点り、電話が開通したのは1909年といいますから文字通り「雪あかり」の町だったのでしょう。港文館の南の南大通り(別称啄木通り)には啄木歌碑が20数基あるといいます。

     あわれかの国のはしにて
       酒飲みき
     かなしみの滓を啜るがごとくに


啄木は「さびしき」とか「あわれかの国」とか釧路のことを歌っています。わたしの感じた意味と違うかもしれません。
76日しかいなかった啄木にこんなことをいわれ釧路の人たちはなぜ啄木に惹かれるのか・・・わかりません。
小樽にいたってはかなしきは 小樽の町よ 歌ふことなき 人人の 声の荒さよと小樽の人もさんざんです。

石川啄木・・・1886~1912年。父は盛岡市の郊外の住職。僧職ですから教養もあり収入もあったのでしょう。旧制中学に進み、退学になり東京に遊学。就職も出来ず病を得て帰郷。父が宗費滞納で僧職を失い一家の生活は啄木が負うことに。1906年、小学校の代用教員に。1907年函館に、さらに小樽日報の記者に。社内の人間関係で会社を辞め、2008年釧路に釧路新聞の副編集長として単身赴任。ここでも社内の人間関係で会社を辞めたとあります。
ちなみに代用教員時代の月給が5円、釧路の副編集長の月給は20円だったそうです。今の金銭換算で50~80万円相当と推定され、毎晩、料亭街で酒色に溺れていたといいます。前述の歌碑の文字は当時の啄木が贔屓にしていた小奴という人が書いたもの。達筆です。
小奴と看護婦の某女とのゴタゴタもあったといいます。売れない小説に固執して上京、金田一京助の好意に甘えながら浅草の遊所通いをしたともいわれています。金田一京助は家財を処分してまで啄木の面倒を見たそうです。
27歳で夭逝。金田一京助、夏目漱石、土岐善麿、若山牧水ら友人に恵まれました。
今でいうとニート、定職が定まらず、夢みたいに理想を追って小説を書くが出版社に認めてもらえなかった。親友に借りた金で遊所通い。借金を重ね経済破綻、自分を含めて家族は次々と病に倒れていきます。破滅型です。
短歌の枠を破った革命的な三行詩。情熱的で叙情あふれる珠玉のような詩を書いた詩人ですが・・・その評価は・・・人それぞれです。

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