比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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彩の国・・荒川の畔・・・土屋陣屋跡・・・永田家長屋門

2012-06-28 | 古城・城址・陣屋・館跡
6月14日、さいたま市西区西遊馬(にしあそま)に住む友人を訪ねた。JR川越線指扇駅、国道16号線の江北橋の近くです。散歩でもしようと外に出て荒川の左岸の河川敷の中を治水橋まで、引き返して荒川の堤内の集落をブラブラと。
このあたり馬宮村といわれたところ。明治の大合併で西遊馬村、二ツ宮村、土屋村などと新田地区が合併してできた村です(1955年昭和の大合併で大宮市に、現在はさいたま市)。
県道57号線沿いにある馬宮コミュニティーセンターあたりに来ました。

県指定有形文化財永田家長屋門です。
永田さんという個人宅ですので門構えだけ覗くことにしました(母屋は普通の住宅です)。

門扉は乳金物という乳房形の金具で飾られた頑丈なものです。
門の中に駕籠が吊り下げられています。なぜか草鞋が一足。

門の両側は築地塀・・・簓子(ささらこ)塀ともいう・・・下見板を張った塀。
水濠(構え掘)が(現在は東南の方向が埋められていますが)四方を囲んでいます。

土塁があれば完全に城郭ですがいまは見られません。

長屋門だけで桁行21.16m、梁間4.75m、高さ6.16m、約100㎡、江戸時代後期に建てられらものらしいですが正確な建造月日は不明。

説明板に・・・永田家の屋敷地は江戸時代初期に関東郡代伊奈備前守忠次がこの地に陣屋を構えた地で、家臣であった永田氏が拝領したもの・・・と書かれています。
この地の地籍名は土屋・・・この屋敷地は土屋陣屋といわれたものとわかってきました。

伊奈忠次・・・家康が江戸入府したのが1590年、それより前に江戸に入り関東運営の策を練ったといい、民政の手だれとして家康が最も信頼をおいた三河以来の重臣。1593年に利根川を銚子に落とす川の付替工事に着手(川俣の締切)。現在の伊奈町丸山に小室領1万石で小室陣屋を持つ。土屋陣屋といわれるのはこの一体の新田開発の土木設計施工管理の出張所みたいなものと思います。出張所ですから工事が終了したとき家臣に与えたのでしょう。
永田家が拝領した時期は定かではないようです。伊奈家三代目忠治が川口市赤山に陣屋を構えたのは1623年、荒川を入間川に流れを変える工事を始めたのは1629年(久下の締切)。土屋陣屋がいつごろ設置されたのかは定かではありません。荒川の工事にめどがついたころ土屋陣屋の機能が終わり1600年代の中ごろ永田家に下げ渡されたと思われます。伊奈家は1792年お家断絶となり永田家も士分を失ったものと思われますが、江戸時代の終わりごろこのような壮大な長屋門を建造したのはこの土地において相当な地位にあったのでしょう。

伊奈一族についてはこれまでも足跡を訪ねてきました→クリック

この日の散歩は10000歩ちょっと、7kmぐらい、1時間。
思わぬ場所で江戸時代の関東郡代伊奈一族の影を見ました。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-07-06 18:51:36
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