鹿児島市から南に、知覧に来ています。薩摩半島のすこし内陸に入ったところ、今は南九州市の中心部のようで市役所があります。とはいっても静かな田舎の村です。知覧茶という銘柄の茶所だそうです。九州のお茶といえば八女茶、嬉野茶ぐらいしか知りませんでした。暖かいところですが霜除けの扇風機も見られます。
知覧といえば太平洋戦争末期、特攻隊の基地があったところです。
特攻平和会館、平和観音堂、護国神社、記念像、記念碑などがあります
平和会館に入り遺品の数々を見て、遺書に相当するような父母にあてた手紙などを読むと目頭が熱くなります。
すこし年代が違いますが太平洋戦争について、特攻隊についてある程度のことはわかります。それが何なんだということは私には答えは出せません。ここから沖縄方面に飛び立って消えていった若者がいて、彼らは予科練、特攻隊、旧制中学4年生ぐらいから大学生、16~20歳くらいの年齢だったのです。
知覧の町並みの中心部にある「ホタル館」です。知覧基地から飛び立つ特攻隊の若者のしばしの憩いの場所、知覧特攻隊の母、鳥浜トメさんの「富屋食堂」。今は鳥浜トメさんの遺品、当時のことを語る数々の品物、特攻隊員とのふれあいの写真などが展示されているようです。
私の知覧はここからはじまりました。
赤羽礼子著・石井宏著「ホタル帰る」(草思社2001年)
知覧特攻隊の母といわれた鳥浜トメさんの次女赤羽礼子さんの口述を石井宏さんという方が本にしたものです。礼子さんは当時女学生、お店のことなど手伝っていてその中の記憶、母から聞かされた話しなどを淡々と語っています。
この本は物語りでもなくドキュメンタリーとして何かを訴えるという形も取っていません。母の生い立ち、食堂のオバサンとしての特攻隊員との交流、そして戦後、いくつかのエピソードの断片です。
「ホタル」「アリラン」が印象深く語られています。
宮川軍曹
「小母ちゃん、おれ心残りはなんにもないけど死んだら小母ちゃんのところに帰ってきたい・・・・・そうだ、このホタルだ。このホタルになって帰ってくるよ」・・・1945年6月6日出撃。
光山少尉(卓庚鉉)
冨屋食堂で「アリランの歌」を歌います。「アリランの歌」は朝鮮民族のアイデンティティーを示す歌です。兵舎では歌えない歌をトメさんや娘さんに託して父母に歌ったのでしょうか・・・1945年5月11日出撃。
ここに映画が二つあります。2作品とも鳥浜トメさんを巡る話です。
「ホタル」監督 降旗康男、脚本 降旗康男・武山洋 2001年
「俺は、君のためにこそ死ににいく」製作総指揮・脚本 石原慎太郎、監督 新城卓 2007年
映画「ホタル」をDVDでみました。
主演・高倉健・田中裕子
出撃を繰り返しながら生き残った男が、アリランを歌って出撃していった上官の許婚と結婚し、心に深い傷を負ったまま生きています。やがて上官の遺品を渡しに親族のいる韓国を訪ねます。亡き上官のご両親の墓のある寒々とした丘の上でホタルの幻影を見ます。
映画のなかで金山少尉(「ホタル帰える」の光山少尉がモデルのようです)が部下に語る言葉です。
「少尉殿、遺言はありますか」と問う部下に
「検閲を受ける遺書にほんとうの気持ちが書けるか」・・・・中略・・・
「トモさん、私は明朝出撃します。ありがとう。私はトモさんのおかげでほんとうに幸せでした。私は必ずや敵艦を撃沈します。
私は大日本帝国のために死ぬのではありません。私は朝鮮民族の誇りをもって朝鮮にいる家族のために、トモさんのために出撃します。朝鮮民族バンザイ、トモさんバンザイ、幸せに生きてください」(ビデオ画面からの聞き書きですから不正確ですが)。
これは映画ですから脚本家のオリジナルでありメッセージです。監督の降旗康男さんは1934年生まれですから戦中のことを知っておられる方です。実家が旅館業で特攻隊員が泊まって話をした思い出があるそうです。
石原慎太郎総指揮の映画のほうはまだ見ていません。偏見があるからではありません。新城卓監督との間にかなりケンカがありミリタりーリズム賛美の映画ではないようです。
時間の関係で特攻平和会館の遺品にある手紙の数々、目についたものだけの走り読みでした。しっかりした字で胸のうちを語っています。少年ですから純真です。ウルルン。
当時の常套語「征きます」があります。「行って来ます」は帰って来ることを意味しますから禁句でした。
「天皇陛下バンザイ」「大日本帝国バンザイ」「お国のために」が意外に少ないのです。
「母上様」が多いようです。「父上様」は見ませんでした(父上ションボリ)。
検閲のことですが隊員たちはトメさんに手紙を託すことがあったようです。たぶん兵舎内では開封検閲があったからでしょう。町のポストの付近にも憲兵の目があったようです。平和会館の手紙の数々、どれだけ胸の内を語っているでしょうか。抑えた文章になってます。
「ホタル帰る」では礼子さんがお母様が亡くなって最後の化粧の時、深いアザを見ます。憲兵の呼び出しを何度か受けたようです。
「知覧特攻平和会館」、彼らは語ることができません。お参りした人それぞれが心に受け止めて考えることなのでしょう。
それにしてもこの「太平洋戦争」、太平洋上に、東南アジアに、中国大陸に、シベリアに、硫黄島に、沖縄に、本土の各都市に、長崎に広島に、何百万人の犠牲者を出したのでしょうか。いったいなんだったのでしょう。無念です。悔しいです。
知覧といえば太平洋戦争末期、特攻隊の基地があったところです。
特攻平和会館、平和観音堂、護国神社、記念像、記念碑などがあります
平和会館に入り遺品の数々を見て、遺書に相当するような父母にあてた手紙などを読むと目頭が熱くなります。
すこし年代が違いますが太平洋戦争について、特攻隊についてある程度のことはわかります。それが何なんだということは私には答えは出せません。ここから沖縄方面に飛び立って消えていった若者がいて、彼らは予科練、特攻隊、旧制中学4年生ぐらいから大学生、16~20歳くらいの年齢だったのです。

私の知覧はここからはじまりました。

知覧特攻隊の母といわれた鳥浜トメさんの次女赤羽礼子さんの口述を石井宏さんという方が本にしたものです。礼子さんは当時女学生、お店のことなど手伝っていてその中の記憶、母から聞かされた話しなどを淡々と語っています。
この本は物語りでもなくドキュメンタリーとして何かを訴えるという形も取っていません。母の生い立ち、食堂のオバサンとしての特攻隊員との交流、そして戦後、いくつかのエピソードの断片です。
「ホタル」「アリラン」が印象深く語られています。
宮川軍曹
「小母ちゃん、おれ心残りはなんにもないけど死んだら小母ちゃんのところに帰ってきたい・・・・・そうだ、このホタルだ。このホタルになって帰ってくるよ」・・・1945年6月6日出撃。
光山少尉(卓庚鉉)
冨屋食堂で「アリランの歌」を歌います。「アリランの歌」は朝鮮民族のアイデンティティーを示す歌です。兵舎では歌えない歌をトメさんや娘さんに託して父母に歌ったのでしょうか・・・1945年5月11日出撃。
ここに映画が二つあります。2作品とも鳥浜トメさんを巡る話です。
「ホタル」監督 降旗康男、脚本 降旗康男・武山洋 2001年
「俺は、君のためにこそ死ににいく」製作総指揮・脚本 石原慎太郎、監督 新城卓 2007年

主演・高倉健・田中裕子
出撃を繰り返しながら生き残った男が、アリランを歌って出撃していった上官の許婚と結婚し、心に深い傷を負ったまま生きています。やがて上官の遺品を渡しに親族のいる韓国を訪ねます。亡き上官のご両親の墓のある寒々とした丘の上でホタルの幻影を見ます。
映画のなかで金山少尉(「ホタル帰える」の光山少尉がモデルのようです)が部下に語る言葉です。
「少尉殿、遺言はありますか」と問う部下に
「検閲を受ける遺書にほんとうの気持ちが書けるか」・・・・中略・・・
「トモさん、私は明朝出撃します。ありがとう。私はトモさんのおかげでほんとうに幸せでした。私は必ずや敵艦を撃沈します。
私は大日本帝国のために死ぬのではありません。私は朝鮮民族の誇りをもって朝鮮にいる家族のために、トモさんのために出撃します。朝鮮民族バンザイ、トモさんバンザイ、幸せに生きてください」(ビデオ画面からの聞き書きですから不正確ですが)。
これは映画ですから脚本家のオリジナルでありメッセージです。監督の降旗康男さんは1934年生まれですから戦中のことを知っておられる方です。実家が旅館業で特攻隊員が泊まって話をした思い出があるそうです。
石原慎太郎総指揮の映画のほうはまだ見ていません。偏見があるからではありません。新城卓監督との間にかなりケンカがありミリタりーリズム賛美の映画ではないようです。
時間の関係で特攻平和会館の遺品にある手紙の数々、目についたものだけの走り読みでした。しっかりした字で胸のうちを語っています。少年ですから純真です。ウルルン。
当時の常套語「征きます」があります。「行って来ます」は帰って来ることを意味しますから禁句でした。
「天皇陛下バンザイ」「大日本帝国バンザイ」「お国のために」が意外に少ないのです。
「母上様」が多いようです。「父上様」は見ませんでした(父上ションボリ)。
検閲のことですが隊員たちはトメさんに手紙を託すことがあったようです。たぶん兵舎内では開封検閲があったからでしょう。町のポストの付近にも憲兵の目があったようです。平和会館の手紙の数々、どれだけ胸の内を語っているでしょうか。抑えた文章になってます。
「ホタル帰る」では礼子さんがお母様が亡くなって最後の化粧の時、深いアザを見ます。憲兵の呼び出しを何度か受けたようです。
「知覧特攻平和会館」、彼らは語ることができません。お参りした人それぞれが心に受け止めて考えることなのでしょう。
それにしてもこの「太平洋戦争」、太平洋上に、東南アジアに、中国大陸に、シベリアに、硫黄島に、沖縄に、本土の各都市に、長崎に広島に、何百万人の犠牲者を出したのでしょうか。いったいなんだったのでしょう。無念です。悔しいです。
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考えると ほんまに・・その時の為政者や 大人たちに腹が立ちます 許せませんね!
そうそう 話は また柚子ジャム あはは
砂糖 みかんの汁もいれて ミキサーに
かけてから レンジでチン
決め細やかな ジャムになりました
「知覧特攻平和会館」
それにしてもこの時代に生きた若者の姿に何度も
涙しました。今の若者に比べて、とてもしっかりしていたし、文章も文字も立派です。
冨屋食堂の存在がどれほど若者の心を癒してくれたことでしょうか。
知覧に行って来られたのですね。「知覧特攻平和会館」は、私はまだ行く機会がないのですが、同じような手紙類は、別の場所で見た事があります。
やはり、「お父様、お母様」と書かれたものや、妻やまだ見ぬ我が子を思う手紙とかが多かったと思います。その人達の事を思うと、やはり胸がつまりました。
何の為に、この人達はこの若さで、家族を置いて死に向かわなければならなかったのかと……。
「行って来ます」の言葉は、言えなかった事、「蛍になって帰ってきます。」と言った事、20歳にも満たない若者だった事等など悲しい歴史です。
今の平和は、若い彼らの犠牲の上に、成り立っていると思いました。
思わず、目頭が熱くなりました。
そのとき、無言館を思い出しました。
もっと現代の若者にも観てもらいたい感動ものでした。
今や「母上・父上」という言葉、無くなってしまいましたね。
硫黄島でボロボロにやられ東京大空襲で一晩に10万人も死んで沖縄でメチャクチャにやられまだタオルを投入せずに頑張ったのは何故だろう。
この若者たちの死を美化してはいけない。
富屋旅館のお母さんと自分のお母さんと気持ちをダブらせていたのでしょう。それをわかっていたお母さんは優しい人です。
人それぞれ受け止め方は違うでしょうが、彼らが何を思い出撃して行ったか知ることはできません。美化してはいけないと思います。戦争というものは不条理なものです。
純粋な若者たちがここから出発して消えて行きました。