信州上田の・・・六文銭の写真帳
信州佐久平をを横断する江戸時代の幹線道路の中山道・・・八ヶ岳火山群の北の端の蓼科山の北麓の洪積台地。
26番芦田宿と25番望月宿の間に、現在ではほとんど人目に触れないような宿場跡があります。
中山道69次の番外「間の宿 茂田井」・・・
国道142号線から外れた旧道、静かな町並みの中間で現在の行政区域は佐久市茂田井、北佐久郡立科町茂田井に分かれています。
江戸時代の中山道そのままのキツイ傾斜、狭い道幅の街道、白壁の土蔵・・・




養蚕のための江戸時代末期に工夫された温度、湿度調節の「気抜き小屋根」。

大澤酒造の土塀のそばに「高札所あと」の説明板が。大澤家は茂田井村下組の名主を務めていました。

ユックリと歩けば・・・気分は江戸時代の旅人に・・・

中山道69次の間の宿(あいのしゅく)「茂田井宿」、25番目望月宿、26番目芦田宿の間のナンバーの無い認可宿外です。中山道の間の宿はこのほかに吹上宿、桜沢宿(塩尻)、新加納宿がありました。中山道はいまでいう一級国道みたいなもの.幕府直轄、宿の認可は幕府が行っていました。ナンバー外はいろいろ事情があって認可されなかったもの。タテマエとして本陣、脇本陣、宿問屋、旅籠、駅馬など置きません。他宿の収容キャパの関係で緊急の宿泊が半公認だった?駅馬、宿問屋はなかったのですが物流の集散地として発展していきます。

茂田井・・・甕(もたい・・・カメの古日本語の表意文字、のちに茂田井という表音文字に)、古代の須恵器の生産地、須恵器の破片の出土があるようです。江戸期は茂田井村。1889年望月村、院内村と合併して本牧村→1959年望月町→2005年佐久市に。1960年旧茂田井の2/3が立科町に、1/3が望月町に残留。↑の地図の現在地のあたりで行政区域がわかれている。なぜむかしからの共同体であったムラを、しかも一本道の街道村のど真ん中で二分したか・・・?


養蚕のための江戸時代末期に工夫された温度、湿度調節の「気抜き小屋根」。

大澤酒造の土塀のそばに「高札所あと」の説明板が。大澤家は茂田井村下組の名主を務めていました。

ユックリと歩けば・・・気分は江戸時代の旅人に・・・
※撮影日は3月2日。
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