NHKテレビ・福祉ネットワーク「〝生きる力"を取り戻せ」という番組が2月25日放映されました。この話を私がいつも見ている「こころの一人旅」2月26日のブログを見て知り、3月4日の再放送を録画して繰り返し見て考えました。
1945年4月1日から6月23日までの沖縄戦・・・もう65年がたとうとしています。亡くなったかたは日本軍、米軍、沖縄県人すべてを含めて20万人余。いまも多くのかたの遺骨が土中に埋まったままです。
2009年10月9日、那覇市首里の旧日本軍司令部の近くの空き地の丘に上に沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨収集のために50人の人が集まりました。路上生活者・家や仕事を失って支援施設に住む人たちの仕事として遺骨収集の市民団体、路上生活者自立支援NPOの方たちが市に呼びかけて実現したものです。2ヶ月働いて約20万円、50人ですから予算は1000万円規模。それを自立のきっかけにしてもらいたいというのが狙いなのでしょうか。
この人たちは
何でここで
死ななきゃならなかったのか
(遺骨収集市民団体世話人さんの言葉より)
彼らは生きたくても
生きられなかった"人の命”だった
その遺骨に触れることによって
真剣に生きることを考えて・・・
(自立支援NPO世話人さんの言葉より)
10月21日、最初の遺骨が発見されます。
銃弾も大量に出てきます。
お骨には銃弾の貫通したあとが。
お骨は日本の兵隊さんかウチナワンチュか米兵かわかりません。
死ねばみなホトケ様です。
64年間、野ざらしになっていたこの人も
これで心安らかに眠れるのではないか・・・
幸せね、
こうして供養される
みなさんは
まだ多くのかたがたが
土中の眠ったままです。
働いていた人たちのつぶやき・・・
ここで働いて人生が変わった。ほんとに働いたような気がする。
前よりも前向きに生きていけるのではないか。
仕事は終わったが忘れてはいけない。
遺骨をとおして学ばなければいけないことがあった。
人のためでもあったが自分のためでもあった。
生きていてよかったという気分でがんばりたい。
死んだらそれで終わり、自分はまだ生きている、まだやり直しができる。
ここで働いた人たちがこのことをきっかけにして進んでいってくれることを願ってやみません。
戦場だった沖縄。1945年4月1日米軍が沖縄本島に上陸してから沖縄はずっと基地の島のままです。普天間・嘉手納から朝鮮戦争にベトナム戦争に戦略爆撃機が飛び立っていきました。とうぜん弾薬庫もあります。いままた1500mの滑走路の新しい基地を緑豊かな沖縄北部・ヤンバルの地に作ろうとしています(沖縄中部東海岸勝連半島のホワイトビーチ案も出てきました)。作ってしまえば既成事実としてまたまた50年以上はそのままでしょう。100年以上も祖国でない祖国。数100年前までは沖縄は武具もないような平和な国だったのです。
沖縄の土の中で眠っているこの大戦の犠牲者のためにも沖縄から戦争のための基地をなくすことを切に願っています。
(写真はベトナム戦争時に嘉手納基地で不気味な姿を見せていたB52戦略爆撃機)
※カテゴリー「沖縄のこと」…クリックして読んでいただけたら…。
1945年4月1日から6月23日までの沖縄戦・・・もう65年がたとうとしています。亡くなったかたは日本軍、米軍、沖縄県人すべてを含めて20万人余。いまも多くのかたの遺骨が土中に埋まったままです。
2009年10月9日、那覇市首里の旧日本軍司令部の近くの空き地の丘に上に沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨収集のために50人の人が集まりました。路上生活者・家や仕事を失って支援施設に住む人たちの仕事として遺骨収集の市民団体、路上生活者自立支援NPOの方たちが市に呼びかけて実現したものです。2ヶ月働いて約20万円、50人ですから予算は1000万円規模。それを自立のきっかけにしてもらいたいというのが狙いなのでしょうか。
この人たちは
何でここで
死ななきゃならなかったのか
(遺骨収集市民団体世話人さんの言葉より)
彼らは生きたくても
生きられなかった"人の命”だった
その遺骨に触れることによって
真剣に生きることを考えて・・・
(自立支援NPO世話人さんの言葉より)
首里の丘の上でしょうか。
かつてこの丘の上には一草一木もないほどに大量の砲弾が打ち込まれました。
かつてこの丘の上には一草一木もないほどに大量の砲弾が打ち込まれました。
10月21日、最初の遺骨が発見されます。
銃弾も大量に出てきます。
お骨には銃弾の貫通したあとが。
お骨は日本の兵隊さんかウチナワンチュか米兵かわかりません。
死ねばみなホトケ様です。
64年間、野ざらしになっていたこの人も
これで心安らかに眠れるのではないか・・・
年が明けて1月、慰霊祭が行われました。
確認された遺骨は170柱。お線香が捧げられます。
幸せね、
こうして供養される
みなさんは
まだ多くのかたがたが
土中の眠ったままです。
働いていた人たちのつぶやき・・・
ここで働いて人生が変わった。ほんとに働いたような気がする。
前よりも前向きに生きていけるのではないか。
仕事は終わったが忘れてはいけない。
遺骨をとおして学ばなければいけないことがあった。
人のためでもあったが自分のためでもあった。
生きていてよかったという気分でがんばりたい。
死んだらそれで終わり、自分はまだ生きている、まだやり直しができる。
ここで働いた人たちがこのことをきっかけにして進んでいってくれることを願ってやみません。
戦場だった沖縄。1945年4月1日米軍が沖縄本島に上陸してから沖縄はずっと基地の島のままです。普天間・嘉手納から朝鮮戦争にベトナム戦争に戦略爆撃機が飛び立っていきました。とうぜん弾薬庫もあります。いままた1500mの滑走路の新しい基地を緑豊かな沖縄北部・ヤンバルの地に作ろうとしています(沖縄中部東海岸勝連半島のホワイトビーチ案も出てきました)。作ってしまえば既成事実としてまたまた50年以上はそのままでしょう。100年以上も祖国でない祖国。数100年前までは沖縄は武具もないような平和な国だったのです。
沖縄の土の中で眠っているこの大戦の犠牲者のためにも沖縄から戦争のための基地をなくすことを切に願っています。
(写真はベトナム戦争時に嘉手納基地で不気味な姿を見せていたB52戦略爆撃機)
※カテゴリー「沖縄のこと」…クリックして読んでいただけたら…。
そしてまた、画期的な取り組みに
感動しました。
こちらからも記事をTBさせて頂きました。
世話人さんのコメントも言葉を選んでいらっしゃいました。
菜花さんから教えられて録画を見てブログアップしようと試みましたが時間がかかりました。こちらも言葉を選ばなければなりませんでした。失業者に対して「頑張って」と激励する・・・というような権利も資格もありません。
この話ができるだけ多くの人に読んでもらえたらと思っています。
まだ、そんなにお骨が残っているなんて
知りませんでした・・・。
沖縄に限らず戦争によってなくなったかたがたのお骨は世界中に眠っています・
ご冥福を祈ります。