比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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南信州紀行2015・・・美しい天龍村の風景の影に・・・負の歴史

2015-07-24 | 語り継ぐ責任 あの戦争
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6月22日、1年ぶりの南信州、長野県の最南端の天龍村です。
今日の目的は天龍村の村長に逢いに来たのではなく村鳥に逢いに来たのです。天龍村役場から坂道を下れば寺様。

ブッポウソウの観鳥の定点スポット「自慶院さん」に来ました。

長野山自慶院・・・曹洞宗のお寺さんです。
境内の庫裏に天龍村役場に設置した巣箱の中においた定点カメラのライブテレビが置いてあります。

さて、ブッポウソウの話しは少しおいておいて、70年以上むかしの天龍村に起きた話です。

自慶院の境内の墓地にある「興亜建設隊殉職者の碑」・・・興亜建設隊とは平岡ダム建設のために太平洋戦争中に集められた中国人労働者のこと。
平岡ダムの建設請負会社の熊谷組が終戦後間もなく建立したもののようです。建立の経緯については詳細不明。

※この墓は自慶院の住職盛正賢師に案内していただきました。卒塔婆が見られます。懇ろな法要が営まれているようです。

美しい天龍川を堰きとめて造られた巨大ダム、天龍村の象徴・・・「平岡ダム」・・・1938年着工、戦中・戦後の中断もあって1951年竣工。
このダムサイトにも中国人労働者の殉難慰霊碑があります。中国人労働者884人、死者62人、栄養失調により失明22人。天龍村の火葬場に埋められていた死者の遺骨は日中友好協会長野県連合会飯田支部により掘り起こされて、1964年訪中団が中国を訪れ返還されました。慰霊碑はそのとき慰霊碑建設実行委員会が結成されて5万数千人の浄財で建立されたものです。

在日殉難中国烈士永垂不朽」・・・
碑文の揮毫は中国紅十字会長李徳全女史(1964年建立)。



太平洋戦争中の連合軍東京捕虜俘虜収容所第2派遣所(満島捕虜俘虜収容所)跡(現天龍中学校)に建つ連合軍関係死亡者の鎮魂碑。碑の裏には英文で経緯と死者56人の名前を刻まれています。この碑は「天龍村史」発行に合わせて2000年秋に建てられたものです。


ここでは太平洋戦争初期に日本軍が侵攻したフィリピン、シンガポール、スマトラで捕虜となった連合軍捕虜440人が平岡ダム建設のために労働に従事して56人が死亡。死因は飢餓、脚気、心臓病、肺炎、殴打。終戦後、この収容所の看守にあたった軍人、軍属のうち6人がBC級戦犯で絞首刑。

信州の最南端の美しい天龍村の風景の影に、かつてこんなことがあったことを知ってほしい。
戦争のない時代を生かさせてもらったわたしたちはその平和な時代がこれからも続いて行けるように、不幸な時代の出来事を語り継いでいく責任があり、孫子の代が正しく歴史認識するための材料になればと思っています。

《参考》「平岡ダムの歴史を残す会」のHP→クリック
     市民団体人権平和浜松のHP「平岡発電工事への強制連行について→クリック





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