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ここは軽井沢町大字長倉字大日向。
国道18号線(中山道)、中軽井沢から信濃追分のあたりの仮宿というところから浅間山の西斜面の地域です。
浅間山の西麓、広々とした裾野に高原野菜の栽培地が拡がります。
農地の近くに昭和天皇が1947年に訪れたときに詠んだ歌碑が建っています。
浅間おろし つよき麓に かえりきて
いそしむ田人 たふとくもあるか
ここはかつては国有林、あの戦争の2年後の1947年、長野県南佐久郡大日向村(現佐久穂町)出身の人たちが開拓を始めた地。
1937年、第七次満蒙開拓団四家房大日向村分村・・・第一のふるさと佐久大日向村から216戸674人が第二のふるさと満州大日向村で開拓をはじめた。
1947年、長野県軽井沢町長倉仮宿地籍の国有林にその満蒙開拓大日向村から帰国した人たちのうち65戸165人が第三のふるさと大日向郷の開拓をはじめた。昭和天皇巡幸。
1955年、国有林買取り融資返済を終了。
1963年、開拓終了。
1964年、大日向公民館落成、大日向開拓記念館が併設。皇太子夫妻巡幸。巡幸記念碑が建っています。
鍬の入ることなど無かった浅間山麓の溶岩、火山灰の地、樹の根を掘上げ、荒地を耕し、蕎麦、ジャカイモ、麦を植え、酪農を試み、現在の高原野菜の広がる地に育てた。
1947年開設の大日向開拓記念館。あれから60数年、当時の方でご壮健の方はいらっしゃるでしょうか。65戸の入植者のうち現在、専業農家は1戸と聞く。
開拓記念館を訪れる人は、説明者の都合から前もっての予約が必要だそうです。
なぜ大日向村の人たちが移住をくり返したのか?
大日向村・・・国道299号線、群馬県境の十石峠から千曲川の支流の抜井川が流れ落ちる沖積平地などほとんどないⅤ字谷の村。昭和初期、世界経済恐慌、生糸相場の下落などで農村は疲弊。村税は集まらない、小作料は滞る、大日向村では兵事主任を残し村長、助役、村会議員、主なる役員が総辞職という惨状。どこの村でもそんな状態であったでしょう。
1936年、軍は「満州農業移民百万戸移住計画」を立案、この移民は議会向けには「試験移民」、拓務省では「自衛移民」、関東軍では「武装移民」と使い分けられていたといいます。はじめは在郷軍人会主導による募集、この募集計画が滞ったからか、自治体単位に送出という形が行われるようになります。
大日向村の満州移民分村はその満蒙開拓分村進出の日本で最初の村。当時の村人口2133人、うち渡満者664人(村人口の31.1%)、敗戦時の帰国者327人(49.2%)、敗戦時の銃撃で20人、新京の収容所で300数十人が酷寒、栄養失調で死亡と伝えられています。
渡満した大日向村人に与えられた土地は水田1000町歩、畑1500町歩。山林1500町歩、戸数平均にすると1戸20町歩弱。これが現地人から安価で強制収容した土地であると知ったのはあとのことだそうです。耕耘機などの農機具の無い時代。とても自分たちだけで耕作できる面積ではありません。作男、小作人を使う生活になります。日本の農村で過ごした環境が逆になりました。
満州大日向村の敗戦時の帰国者の約半数が軽井沢仮宿地籍の国有林の払い下げ土地に入植。ここではじめてみずから額に汗しての「開拓」を経験したといいます。
(井出孫六著「終わりなき旅」岩波書店1986年刊・・・の文中より)
「開拓」ということばは辞書を引かずとも「山野・荒地を切り開いて耕地や敷地にする」ことの意であることは明らかだが「満蒙開拓」とは多くの場合「現地住民の汗の結晶である既耕地を奪い住居を奪い、そこに住むこと」であったとすれば「満蒙開拓」という言葉それ自身が、ためにする謀りのことばであったということだろう。
《参考リンク》
※1940年、映画「大日向村」が公開されています。
※2005年、長野放送制作 ドキュメント「大日向開拓物語 満州 そして軽井沢」
※ブログ「季節の変化」大日向村は満蒙開拓団のモデルケース
ここは軽井沢町大字長倉字大日向。
国道18号線(中山道)、中軽井沢から信濃追分のあたりの仮宿というところから浅間山の西斜面の地域です。
浅間山の西麓、広々とした裾野に高原野菜の栽培地が拡がります。
農地の近くに昭和天皇が1947年に訪れたときに詠んだ歌碑が建っています。
浅間おろし つよき麓に かえりきて
いそしむ田人 たふとくもあるか
ここはかつては国有林、あの戦争の2年後の1947年、長野県南佐久郡大日向村(現佐久穂町)出身の人たちが開拓を始めた地。
1937年、第七次満蒙開拓団四家房大日向村分村・・・第一のふるさと佐久大日向村から216戸674人が第二のふるさと満州大日向村で開拓をはじめた。
1947年、長野県軽井沢町長倉仮宿地籍の国有林にその満蒙開拓大日向村から帰国した人たちのうち65戸165人が第三のふるさと大日向郷の開拓をはじめた。昭和天皇巡幸。
1955年、国有林買取り融資返済を終了。
1963年、開拓終了。
1964年、大日向公民館落成、大日向開拓記念館が併設。皇太子夫妻巡幸。巡幸記念碑が建っています。
鍬の入ることなど無かった浅間山麓の溶岩、火山灰の地、樹の根を掘上げ、荒地を耕し、蕎麦、ジャカイモ、麦を植え、酪農を試み、現在の高原野菜の広がる地に育てた。
1947年開設の大日向開拓記念館。あれから60数年、当時の方でご壮健の方はいらっしゃるでしょうか。65戸の入植者のうち現在、専業農家は1戸と聞く。
開拓記念館を訪れる人は、説明者の都合から前もっての予約が必要だそうです。
大日向公民館の前庭に咲く・・・水やりをしていた人がササユリと教えてくれたが・・・アサマキスゲ?
明仁、美智子ご夫妻が皇太子夫妻のころ、ここにおくられたアサマキスゲ(別名アサマユウスゲ)だそうだ。
1964年落成した公民館には開拓記念館とともに開拓之碑が建立された。
そこには「満蒙開拓」の字も「軽井沢開拓」の字もない。すべてを意味しているのであろうか。
明仁、美智子ご夫妻が皇太子夫妻のころ、ここにおくられたアサマキスゲ(別名アサマユウスゲ)だそうだ。
1964年落成した公民館には開拓記念館とともに開拓之碑が建立された。
そこには「満蒙開拓」の字も「軽井沢開拓」の字もない。すべてを意味しているのであろうか。
※撮影は7月、Panasoni LUMIX DMC TZ-40
なぜ大日向村の人たちが移住をくり返したのか?
大日向村・・・国道299号線、群馬県境の十石峠から千曲川の支流の抜井川が流れ落ちる沖積平地などほとんどないⅤ字谷の村。昭和初期、世界経済恐慌、生糸相場の下落などで農村は疲弊。村税は集まらない、小作料は滞る、大日向村では兵事主任を残し村長、助役、村会議員、主なる役員が総辞職という惨状。どこの村でもそんな状態であったでしょう。
1936年、軍は「満州農業移民百万戸移住計画」を立案、この移民は議会向けには「試験移民」、拓務省では「自衛移民」、関東軍では「武装移民」と使い分けられていたといいます。はじめは在郷軍人会主導による募集、この募集計画が滞ったからか、自治体単位に送出という形が行われるようになります。
大日向村の満州移民分村はその満蒙開拓分村進出の日本で最初の村。当時の村人口2133人、うち渡満者664人(村人口の31.1%)、敗戦時の帰国者327人(49.2%)、敗戦時の銃撃で20人、新京の収容所で300数十人が酷寒、栄養失調で死亡と伝えられています。
渡満した大日向村人に与えられた土地は水田1000町歩、畑1500町歩。山林1500町歩、戸数平均にすると1戸20町歩弱。これが現地人から安価で強制収容した土地であると知ったのはあとのことだそうです。耕耘機などの農機具の無い時代。とても自分たちだけで耕作できる面積ではありません。作男、小作人を使う生活になります。日本の農村で過ごした環境が逆になりました。
満州大日向村の敗戦時の帰国者の約半数が軽井沢仮宿地籍の国有林の払い下げ土地に入植。ここではじめてみずから額に汗しての「開拓」を経験したといいます。
(井出孫六著「終わりなき旅」岩波書店1986年刊・・・の文中より)
「開拓」ということばは辞書を引かずとも「山野・荒地を切り開いて耕地や敷地にする」ことの意であることは明らかだが「満蒙開拓」とは多くの場合「現地住民の汗の結晶である既耕地を奪い住居を奪い、そこに住むこと」であったとすれば「満蒙開拓」という言葉それ自身が、ためにする謀りのことばであったということだろう。
《参考リンク》
※1940年、映画「大日向村」が公開されています。
※2005年、長野放送制作 ドキュメント「大日向開拓物語 満州 そして軽井沢」
※ブログ「季節の変化」大日向村は満蒙開拓団のモデルケース
私の村にも村有林を提供した場所がありました。
県が提供したところもありました。富士の裾野にもあります。浅間山麓は信州側にも、群馬県側のもあります。そしてその1世たちは数少なくなりました。
ここでは昭和天皇、皇太子のことを書いていますが、天皇は政治には関係ない存在、普通の人として心が痛んだのでしょう。
大日向の移民667人、満人の襲撃ではなく新京の収容所に入ってから半数がなくなっています。
悲しいです。
山本慈昭師の映画「望郷の鐘」が公開されます。大勢の人に見てもらいたい。
鉄も油もない国ですから戦争は負けて当たり前、そして移民した人たちはかたき討ちのようにひどい目に合いました。
美智子さんが贈ったというキスゲがとっても綺麗でした。
政府は開拓という名前の他国への侵略、植民政策を行いました。西欧諸国のマネをしたのです。
いま福島の避難民が漂流しています。原発の地域はすべて貧乏村です。六か所村は草木も生えないといわれました。
何時の時代にも苦労するのは僻地村です。
山の上の僻地村を見るとこんなところによく住んでいたと思うところがあります。
江戸時代のほうがみんな心豊かに生きていたのかなと思うことがあります。
現地人のその恨みが、戦後開拓の人たちが悲惨な目に合うことになりました。子どもだった私の眼に焼き付いていて、今も忘れることはできません。
原発事故後の対処などを見ていますと、国っていったい国民を守るつもりがあるのだろうかと、開拓と重なって考えてしまいます。
土地と家を奪うなんて ひどいな・・・
恥ずかしい事を したんですね・・・
満豪開拓青少年義勇軍に応募したのはほとんどが貧しい山村の青少年。長野県・埼玉が多かったようです。
最年少14歳の彼らが受けた現地での苦難の歳月。敗戦後故国の土を踏んだ人たち、飢えをしのぐためにまた新たなる開拓へ・・・・・・・・・・・。
≫第二のふるさと満州大日向村で開拓をはじめた。
なるほど、思えばきっと満州にてひとはだ挙げて!!それが、また新たなる挑戦になったわけですね。
先般、奥多摩湖の歴史を調べていたらこのふるさとを後に軽井沢、浅間山麓昭和村へと開拓の鍬を入れに移住した多くの人たちが居た・・・と、読みました。
昔は言われるまま、政府の言いなりであったことでしょうが、現代は情報化時代でお上の一筋縄ではいけないでしょう。
何時もよき記事upありがとう御座います。