.
20014年7月、北軽井沢を訪れたとき、応桑方面まで足をのばして道路際に立つ「満蒙開拓碑」に詣でました。
浅間山の東北麓、北軽井沢から北に向かったあたり、ここは群馬県から「満蒙開拓」に赴いた方々が敗戦後に引揚げてきて「第三のふるさと」として開拓をはじめた地です。
長野原町の行政上の字名にはなっていませんが、国土地理院の地図にあるハイロン、大屋原、甘楽、群高、アテロ、下小菅が入植地のようです。ハイロン,アテロは旧満州の入植地の現地名?、
1946~49年までの3年間に193戸が入植。1200㌶。痩せた火山灰地、酷寒と闘い、はじめは雑穀、酪農、高原野菜と農業経営を進めていったといいます。
ここまで、おりにふれて満蒙開拓団の碑を詣でてきました。碑の建立は多くの場合は1955~1975年(昭和30年~昭和50年)、その時代背景、建立者の思いにより違いますが、共通していることは開拓の経過、敗戦による苦難が語られていますが、「満蒙開拓とは何であったか」という記述がないことです。それを語ることはたいへんに辛いことだからでしょうか。
「満州報国隊記念碑」ではじめて戦争について語られている碑文を読みましたので、ここに紹介します。
戦争は多くの人類を殺傷し、
国民の生活を破壊する最大の罪悪である。
(中略)
思えば私達の報国開拓奉仕の行為が
国際平和共存のための営みであったなら、
どんなに誇らしくすばらしい業であったろうに。
戦争の惨状悲哀は筆舌に表わし難い。
わたしたちは人間として、この世の続く限り
どのようなことがあっても、
二度と戦争の罪悪をくり返してはならないことを
永遠の子孫に訴え
恒久平和を祈念してこの碑を建つ
報友会
※「満蒙開拓とは何であったのか」と私たちが具体的に知るようになったのは、井出孫六が月刊雑誌「世界」に「終わりなき旅」(1985年)を、山崎豊子が月刊雑誌「文藝春秋」に「大地の子」の連載(1987年)を始めてからです。
井出孫六は「終わりなき旅」の中でこう書いています。
「開拓」ということばは辞書を引かずとも「山野・荒地を切り開いて耕地や敷地にする」ことの意であることは明らかだが「満蒙開拓」とは多くの場合「現地住民の汗の結晶である既耕地を奪い住居を奪い、そこに住むこと」であったとすれば「満蒙開拓」という言葉それ自身が、ためにする謀りのことばであったということだろう。
20014年7月、北軽井沢を訪れたとき、応桑方面まで足をのばして道路際に立つ「満蒙開拓碑」に詣でました。
浅間山の東北麓、北軽井沢から北に向かったあたり、ここは群馬県から「満蒙開拓」に赴いた方々が敗戦後に引揚げてきて「第三のふるさと」として開拓をはじめた地です。
長野原町の行政上の字名にはなっていませんが、国土地理院の地図にあるハイロン、大屋原、甘楽、群高、アテロ、下小菅が入植地のようです。ハイロン,アテロは旧満州の入植地の現地名?、
1946~49年までの3年間に193戸が入植。1200㌶。痩せた火山灰地、酷寒と闘い、はじめは雑穀、酪農、高原野菜と農業経営を進めていったといいます。
浅間山麓、群馬県長野原町北軽井沢・・・国道146号線「甘楽」バス停前。
ここは満蒙開拓甘楽郷の人達が入植した地。
高原野菜畑が拡がっています。
道を隔てて、甘楽郡から満蒙開拓に臨んだ方々の「群馬県満州開拓碑」が建っています(1968年建立)。
並んで建つ甘楽郡から満蒙開拓奉仕隊に臨んだ方々の「満州報国隊記念碑」(1976年建立)
甘楽郡満州報国隊・・・甘楽郡内から青少年労働奉仕隊として1944~1945年4月の間に144名が参加、6名の犠牲者を出して1946年10月帰国した。
ここは満蒙開拓甘楽郷の人達が入植した地。
高原野菜畑が拡がっています。
道を隔てて、甘楽郡から満蒙開拓に臨んだ方々の「群馬県満州開拓碑」が建っています(1968年建立)。
並んで建つ甘楽郡から満蒙開拓奉仕隊に臨んだ方々の「満州報国隊記念碑」(1976年建立)
甘楽郡満州報国隊・・・甘楽郡内から青少年労働奉仕隊として1944~1945年4月の間に144名が参加、6名の犠牲者を出して1946年10月帰国した。
ここまで、おりにふれて満蒙開拓団の碑を詣でてきました。碑の建立は多くの場合は1955~1975年(昭和30年~昭和50年)、その時代背景、建立者の思いにより違いますが、共通していることは開拓の経過、敗戦による苦難が語られていますが、「満蒙開拓とは何であったか」という記述がないことです。それを語ることはたいへんに辛いことだからでしょうか。
「満州報国隊記念碑」ではじめて戦争について語られている碑文を読みましたので、ここに紹介します。
戦争は多くの人類を殺傷し、
国民の生活を破壊する最大の罪悪である。
(中略)
思えば私達の報国開拓奉仕の行為が
国際平和共存のための営みであったなら、
どんなに誇らしくすばらしい業であったろうに。
戦争の惨状悲哀は筆舌に表わし難い。
わたしたちは人間として、この世の続く限り
どのようなことがあっても、
二度と戦争の罪悪をくり返してはならないことを
永遠の子孫に訴え
恒久平和を祈念してこの碑を建つ
報友会
※「満蒙開拓とは何であったのか」と私たちが具体的に知るようになったのは、井出孫六が月刊雑誌「世界」に「終わりなき旅」(1985年)を、山崎豊子が月刊雑誌「文藝春秋」に「大地の子」の連載(1987年)を始めてからです。
井出孫六は「終わりなき旅」の中でこう書いています。
「開拓」ということばは辞書を引かずとも「山野・荒地を切り開いて耕地や敷地にする」ことの意であることは明らかだが「満蒙開拓」とは多くの場合「現地住民の汗の結晶である既耕地を奪い住居を奪い、そこに住むこと」であったとすれば「満蒙開拓」という言葉それ自身が、ためにする謀りのことばであったということだろう。
※コメント欄オープン。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます