満蒙開拓青少年義勇軍・・長野県第7次斉藤中隊・・・なぜこのテーマで長々と書いてきたのか。
妻の母の弟2人が満州の土に散り戸倉・上山田温泉の丘の上の慰霊塔に名前を刻まれていること、わたしの村の同級生の従兄弟が中国残留孤児で中国語を習っていたわたしの父が手紙のやり取りの手伝いをしたこと、村に義勇軍の訓練所の象徴「日輪兵舎」があったこと、同級生に引揚者が多かったこと、などからでしょうか。
松本市のMさんに送ってもらった4月24日のNHK「証言 兵士たちの戦争 王道楽土を信じた少年たち」の録画をくり返し見ました。
資料になる本も探しました。
長野市に行ったついでに長野県立図書館で拾い読みして出版元に問い合わせ入手できず、これも松本のMさんに送ってもらいました。残念ながらこの本は自費出版で市場に出回っていないようです。
佐藤先生(わたしはふつう「さん」付けでしか呼びませんが)は218名からなる斉藤中隊の1人。義勇軍には珍しく旧制中学からの志願です。思いをこめた記述、講演会録、新聞社への投稿、インタビュー内容、資料など。わたしのこれまでの記事は資料の詳細な記録を参考にさせてもらいました。表紙の写真は内原訓練所の日輪兵舎前か。日輪兵舎は今も内原に遺構のように1基あるそうです。
本の内容はここでは省略します。
蛇足ですが佐藤先生は帰国後、苦労して定時制高校から大学へ、長らく高校教師を勤められました。松本市のMさんの元同僚です。
満蒙開拓団・・・満蒙開拓青少年義勇軍・・・・って何だったのでしょう。
昭和初期・・・世界恐慌、生糸を軸にした日本農業の壊滅です。日本の大陸進出と疲弊した農村からの大量移民計画、他人の国に土足で入っていくのですから武装化も必要です。侵略とか略奪とかいわずに「王道楽土」といいました。このへんは井出孫六著「終わりなき旅」(岩波書店1986年)が詳しい。
農民の移民促進の「アメ」は「1人20町歩の土地」です。その当時の農民の土地は世帯あたり3反歩ぐらいでしょうか(俗に三反百姓なんていいます)。わたしの田舎では1町歩あれば大百姓です。ちなみに1町歩は1ヘクタール(3000坪)です。
農地も職業もない百姓の次男三男は飛びつきます。まともな働き口なんかない時代です。それでも行かない人もおおぜいいました。渡満していった開拓民は最初はまったくの更地を開拓するつもりだったようです。長野、山形、福島、広島、熊本・・・の農民ですからそんなことは覚悟のうえだったでしょう。
渡満して与えられた土地は現地人の土地を強制収用したものだとわかります。そりゃまずいぜ。なんていう人もいなかったでしょうね。いたかもしれません。百姓の苦しみは百姓ならわかるはずです。でもどうにもなりません。
「王道ではなく覇道」だったのです。やられたほうは地獄です。やがてそれが自分たちの身に返ってきます。「覇道地獄」です。
満蒙開拓団は国策として県をあげて郡をあげて村をあげての移住計画が行われました。分村です。山崎豊子の小説「大地の子」のモデルとされる信州埴科郷開拓団308名(佐渡開拓団とともに玉砕)は戸倉・上山田・屋代の郷村の集団です。在郷軍人会、村長などが中心になって分村計画を進めたのでしょう。
青少年義勇軍はどうでしょう。国策で県ごとに送出(供出とも)割り当てがあり、それに最も忠実に反応したのが長野県、長野県の場合は信濃教育会という集団を通じて教育現場の教師が大きな役割を果たしたといわれます。
(写真は学校で送別会を受ける子どもたち)
14~15歳の子どもが対象ですが、旧制中学生は予科練・幹部候補生、士官学校などがあります。それまでは軍需工場に学徒動員です。国民小学校高等科(2年制)が対象になります。例外は佐藤先生のように予科練に憧れ試験を受けたが不合格というような人、予科練にあこがれたが親に止められた人なんかもいます。
それでも予定送出数を満たすのはたいへんで家庭訪問をして親にひざ詰めでお願いしたようです。教師ですから国の体制に従うのはとうぜんですがそれにしても長野県の送出数は断トツです。昭和20年までの義勇軍数86000人、内長野県7000人。教師の勧めによる志願は81%という数字も見られます。
教師の立場というのは苦しいですね。やらなければ教育会という大きな組織の力から抹殺されます。戦中ですから特高警察もいます。
テレビインタビューで答える元教師のかたです。
わたしには責める資格はありません。よくこのインタビューに出てくれたと思います。
教師というのはキビシイ職業です。
予科練や義勇軍の志願を教唆した教師たちも犠牲者かもしれません。
「教え子を戦場に」・・・二度と送らないで。
参考にした書籍です。
●長野県歴史教育者協議会「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(大月書店2000年刊)
●井出孫六「終わりなき旅」(岩波書店」(岩波書店1986年刊)
●山口盈文「僕は八露軍の少年兵だった」(草思社1996年刊)
●上 笙一郎「満蒙開拓青少年義勇軍」(中公新書1973年刊)
平成21年度、政府からこんなものをもらいました・・・銀杯です。
鉄砲担いだ少年兵だったのですが軍人ではありませんから軍人恩給、戦没者遺族(父母)に対する給付金、忌慰金はありません。損害補償もありません。
「官費旅行したと思って諦めにゃしょうがねえ」
「自分で決めたことだ・・・人のせいじゃない・・・
俺があそこに行こうと思ったから・・・」
悲しい・・・あまりにも悲しい・・・わたしだって何年か経ったらおなじようにしたかもしれないが。
シベリア抑留者は65万人、死者6万人。約9%。というのがが定説のようです。
抑留者107万人、死者34万人という説もあります。
満州開拓者は27万人、死者78000人。約28%。
青少年義勇軍は86500人、死者24200人、約28%。
少年たちが信じた「王道楽土」だったらこんなに犠牲者が出るはずがありません。
誰かが誰かをだました・・・マインドコントロールの親玉がどこかにいたはずです。
長野県第7次斉藤中隊218人、死者123人、約56%。
生きて帰らなかった123人の拓友のために、戦争で亡くなったすべての犠牲者のために生きて帰ったものは何をしなければならないのか。
佐藤仁先生はこう語っています。
「戦争体験を子どもたちに何とかして伝えたい。そう思ってやってきました。
でも思うようにいかない。生徒どころか近ごろは若い同僚との間にも断絶がある。
戦争を知らない世代に、そのまま体験を伝えようとしても無理なんでしょうか。
しかし私にできることは語ることしかない」
4回にわたって「満蒙開拓青少年義勇軍・①・・王道楽土を夢見た少年たち」から付き合ってくださってありがとうございました。
発想はNHKドキュメント「王道楽土を信じた少年たち」からです。繰り返し見て関連図書も読んで原稿にしましたが、なお理解不足のところがあり、また解釈の違いがあると思います。お許しください。辛い過去(加害と被害の歴史)を持ってあれから65年の人生を生きて、証言してくれた皆様に改めてお礼申し上げます。
妻の母の弟2人が満州の土に散り戸倉・上山田温泉の丘の上の慰霊塔に名前を刻まれていること、わたしの村の同級生の従兄弟が中国残留孤児で中国語を習っていたわたしの父が手紙のやり取りの手伝いをしたこと、村に義勇軍の訓練所の象徴「日輪兵舎」があったこと、同級生に引揚者が多かったこと、などからでしょうか。
松本市のMさんに送ってもらった4月24日のNHK「証言 兵士たちの戦争 王道楽土を信じた少年たち」の録画をくり返し見ました。
資料になる本も探しました。
佐藤 仁「義勇軍から八路軍へ」(哲学書房2002刊)
長野市に行ったついでに長野県立図書館で拾い読みして出版元に問い合わせ入手できず、これも松本のMさんに送ってもらいました。残念ながらこの本は自費出版で市場に出回っていないようです。
佐藤先生(わたしはふつう「さん」付けでしか呼びませんが)は218名からなる斉藤中隊の1人。義勇軍には珍しく旧制中学からの志願です。思いをこめた記述、講演会録、新聞社への投稿、インタビュー内容、資料など。わたしのこれまでの記事は資料の詳細な記録を参考にさせてもらいました。表紙の写真は内原訓練所の日輪兵舎前か。日輪兵舎は今も内原に遺構のように1基あるそうです。
本の内容はここでは省略します。
蛇足ですが佐藤先生は帰国後、苦労して定時制高校から大学へ、長らく高校教師を勤められました。松本市のMさんの元同僚です。
満蒙開拓団・・・満蒙開拓青少年義勇軍・・・・って何だったのでしょう。
昭和初期・・・世界恐慌、生糸を軸にした日本農業の壊滅です。日本の大陸進出と疲弊した農村からの大量移民計画、他人の国に土足で入っていくのですから武装化も必要です。侵略とか略奪とかいわずに「王道楽土」といいました。このへんは井出孫六著「終わりなき旅」(岩波書店1986年)が詳しい。
農民の移民促進の「アメ」は「1人20町歩の土地」です。その当時の農民の土地は世帯あたり3反歩ぐらいでしょうか(俗に三反百姓なんていいます)。わたしの田舎では1町歩あれば大百姓です。ちなみに1町歩は1ヘクタール(3000坪)です。
農地も職業もない百姓の次男三男は飛びつきます。まともな働き口なんかない時代です。それでも行かない人もおおぜいいました。渡満していった開拓民は最初はまったくの更地を開拓するつもりだったようです。長野、山形、福島、広島、熊本・・・の農民ですからそんなことは覚悟のうえだったでしょう。
渡満して与えられた土地は現地人の土地を強制収用したものだとわかります。そりゃまずいぜ。なんていう人もいなかったでしょうね。いたかもしれません。百姓の苦しみは百姓ならわかるはずです。でもどうにもなりません。
「王道ではなく覇道」だったのです。やられたほうは地獄です。やがてそれが自分たちの身に返ってきます。「覇道地獄」です。
満蒙開拓団は国策として県をあげて郡をあげて村をあげての移住計画が行われました。分村です。山崎豊子の小説「大地の子」のモデルとされる信州埴科郷開拓団308名(佐渡開拓団とともに玉砕)は戸倉・上山田・屋代の郷村の集団です。在郷軍人会、村長などが中心になって分村計画を進めたのでしょう。
青少年義勇軍はどうでしょう。国策で県ごとに送出(供出とも)割り当てがあり、それに最も忠実に反応したのが長野県、長野県の場合は信濃教育会という集団を通じて教育現場の教師が大きな役割を果たしたといわれます。
(写真は学校で送別会を受ける子どもたち)
14~15歳の子どもが対象ですが、旧制中学生は予科練・幹部候補生、士官学校などがあります。それまでは軍需工場に学徒動員です。国民小学校高等科(2年制)が対象になります。例外は佐藤先生のように予科練に憧れ試験を受けたが不合格というような人、予科練にあこがれたが親に止められた人なんかもいます。
それでも予定送出数を満たすのはたいへんで家庭訪問をして親にひざ詰めでお願いしたようです。教師ですから国の体制に従うのはとうぜんですがそれにしても長野県の送出数は断トツです。昭和20年までの義勇軍数86000人、内長野県7000人。教師の勧めによる志願は81%という数字も見られます。
教師の立場というのは苦しいですね。やらなければ教育会という大きな組織の力から抹殺されます。戦中ですから特高警察もいます。
テレビインタビューで答える元教師のかたです。
わたしには責める資格はありません。よくこのインタビューに出てくれたと思います。
教師というのはキビシイ職業です。
予科練や義勇軍の志願を教唆した教師たちも犠牲者かもしれません。
「教え子を戦場に」・・・二度と送らないで。
参考にした書籍です。
●長野県歴史教育者協議会「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(大月書店2000年刊)
●井出孫六「終わりなき旅」(岩波書店」(岩波書店1986年刊)
●山口盈文「僕は八露軍の少年兵だった」(草思社1996年刊)
●上 笙一郎「満蒙開拓青少年義勇軍」(中公新書1973年刊)
平成21年度、政府からこんなものをもらいました・・・銀杯です。
鉄砲担いだ少年兵だったのですが軍人ではありませんから軍人恩給、戦没者遺族(父母)に対する給付金、忌慰金はありません。損害補償もありません。
「官費旅行したと思って諦めにゃしょうがねえ」
「自分で決めたことだ・・・人のせいじゃない・・・
俺があそこに行こうと思ったから・・・」
悲しい・・・あまりにも悲しい・・・わたしだって何年か経ったらおなじようにしたかもしれないが。
シベリア抑留者は65万人、死者6万人。約9%。というのがが定説のようです。
抑留者107万人、死者34万人という説もあります。
満州開拓者は27万人、死者78000人。約28%。
青少年義勇軍は86500人、死者24200人、約28%。
少年たちが信じた「王道楽土」だったらこんなに犠牲者が出るはずがありません。
誰かが誰かをだました・・・マインドコントロールの親玉がどこかにいたはずです。
長野県第7次斉藤中隊218人、死者123人、約56%。
生きて帰らなかった123人の拓友のために、戦争で亡くなったすべての犠牲者のために生きて帰ったものは何をしなければならないのか。
佐藤仁先生はこう語っています。
「戦争体験を子どもたちに何とかして伝えたい。そう思ってやってきました。
でも思うようにいかない。生徒どころか近ごろは若い同僚との間にも断絶がある。
戦争を知らない世代に、そのまま体験を伝えようとしても無理なんでしょうか。
しかし私にできることは語ることしかない」
4回にわたって「満蒙開拓青少年義勇軍・①・・王道楽土を夢見た少年たち」から付き合ってくださってありがとうございました。
発想はNHKドキュメント「王道楽土を信じた少年たち」からです。繰り返し見て関連図書も読んで原稿にしましたが、なお理解不足のところがあり、また解釈の違いがあると思います。お許しください。辛い過去(加害と被害の歴史)を持ってあれから65年の人生を生きて、証言してくれた皆様に改めてお礼申し上げます。
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もう・・・
言葉でいえない・・
若いころ 戦争映画が好きだったし
軍服姿の えらそうな 軍人さんを カッコいいと
思ったのが 悔しい・・
この本はわたしも本箱に納まっています。
読むきっかけになったのは、
秩父荒川村(旧)秩父鉄道終点地域、から多くの若者が満州へと渡って。農村の次三男でした。
挙句の果ては苦しい辛酸を舐めた末路でありました。
本によりますと長野県はその数が多かったと記してありました。
≫皆様に改めてお礼申し上げます。
わたしの気持ちはカテゴリーのように「語り継ぐ責任」です。
ヒキノさんの気持ちがとく分かりました。
伯父と叔父二人、そして、義父もシベリア抑留・・・
義母と、一個二人は帰国途中、死亡・・・
余り、多くの悲劇がありました。
このほかにも戦死した身内も多いですが・・・
戦争についての記事、興味深く拝見させていただきました。
ホモ・サピエンス(知恵のある人)が、こうした、悲劇を繰り返さないことを祈っています。
先日もTVで若者にわが国の戦争についてインタビューしていたのですが、あまりにも『戦争』を知らないことにびっくりしました。
まして、少年たちが信じた「王道楽土」・・・。このような出来事なんて、全く知らないはずです。
若者にとっての戦争や満州開拓、シベリア抑留なんて・・映画の中の出来事・・・のひとつなのかも知れません。
65年も経つと・・・戦争体験者も減り、語り継いでゆく人も減り、薄れ行くばかりです。
一度でもいいから、聞く耳をもって・・・心で感じて欲しいものですね。
私も改めて教えていただくことがとても多く、これだけのことをお書きになるのに、どれほどの時間を費やしたのだろうかと、お察ししてています。
戦争体験者がどんどん減っていく今だからこそ、私たちは語らなければなりませんし、若い人たちには聞く耳を持ってほしいと思います。
特に国の指導者の考え方ひとつで、国民の生命まで左右されることがあることを考えますと、選挙がいかに大事かわかってもらえると思います。投票率が80%以上になってほしいと思います。
たくさんの資料からわかりやすくまとめる苦労は並大抵のことではなかったと思います。
何人か集まった時に、戦争当時の話になると、必ず誰かの縁につながる人が満州へ渡っていたとう話が聞かれます。
それだけ、いろいろな地域から人が集められて、送り込まれていたのですね。
長野県はダントツで多くの人が行かされたのですね。
TVなどでも、今年は特に特別番組が多く放送されているような気がします。
日本が、もし○○していなければとか、もし○○していればなど、考えることは沢山あります。
ヒキノさんが仰るとおり、私たちは、重い口を開いて語り始めた語り部たちの悲惨な体験を語り継いでいかなくてはと思います。
水木さんの妖怪はラバウルのジャングルで見たものだったかも。
上官が「玉砕」命令を無視したため生き残ったようです。
麻酔無しで腕を切断、現地人に助けられて生き延びたようです。
でも不思議で長野県より満蒙開拓団が少ないのです。山を越えた南佐久の山あいの村は満蒙開拓団に希望を托したのですが。関東には軍需工場とか就職の口があったのでしょうか。
記録を見ると収容所の飢えで死亡していきますが、逆に天竜川のダム工事で連合軍捕虜、中国人、朝鮮人が飢えで死亡していきます。戦争は両者に加害の歴史を作りました。
テレビの中で「お~い井出きてくれ」という言葉がありました。
50年以上は歴史の世界です。歴史をどう読むか、どう伝えるかが、これからの課題でしょう。歴史は為政者にとって都合よく読まれて来た・・・というのが歴史です。
信州に3日いました。しばらく信州の記事になります。