比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

初冬の中山道・・・妻籠宿・・・下嵯峨屋・・・上嵯峨屋

2019-01-25 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、さらに南へと進んできました。
中山道42番「妻籠宿の町並み」です。

むかし長屋であった「下嵯峨屋」(町有形文化財)。1968年に三軒長屋を解体して1戸分を復元したものです。

昼間は大戸をあけ、蔀戸をあけ、見やすくしてあります。片土間、二間の構造になっています。



下嵯峨屋」の裏・・・旅館をしています。


江戸中期の木賃宿「上嵯峨屋」(町有形文化財)。1969年解体して復元。18世紀中ごろの木賃宿と推定。


※撮影日は11月27日、


※コメント欄オープン。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
木と竹と石からできた家 (縄文人さんへ・・・)
2019-01-26 19:09:38
なるほど。すべて自然からいただいたもの。
木曽の街道を語っていくと、最後に山林問題に突き当たります。古来、木曽の住民は山林を自由に使っていたようです。儲けのためでなく生活のため。山を焼いて畑にする。山の草を刈って家畜の秣に。家を建てるに使う。そして山を永久に守っていく。江戸時代中期まで、検地なし、無高(年貢なし)、それが尾張領になって変わり、山に入れなくなった。
島崎藤村の父は山林解放を願って新政府に嘆願、やがて狂死。この物語を書いたため藤村は木曽では神様になりました。
木曽の街道は藤村あって有名になりました。

妻籠宿・・・大火に逢わなかったことがこの佇まいを残しました。妻籠のほうが宿の価値は高いのですが馬籠のほうが観光価値は藤村のおかげで有名です。
返信する
有形文化財  上嵯峨や (縄文人)
2019-01-26 10:41:04


今までズ~ット中山道の旅籠を見せて貰いました。
して、幾つかの旅籠を実際に見て来ました。

ふと思いを新たにした。
当時は
  材木、(家の骨格部分、建具等)
  竹、 壁米を縄で結んで,土壁を作る)、
  障子、(こうぞ、みつまた)
  石、 (屋根の重し、石垣、階段)
  布 (綿や、蚕て糸を紡ぎ織った)

その当時は、金属類は無く、釘も竹を使ったと聞いた。もちろんガラスなどあるはずがなく格子戸が使われた。
人間の知恵はすごい能力があるものと、
むかしの建物を見てつくづく思いました。

  比企野さんが仰る
「自然の力によって生かされている」仰る通りだと思いました。
その気持ちを強く致しました。

返信する

コメントを投稿