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今日は何の日、太平洋戦争開戦の日です。
1941年12月8日午前1:30 真珠湾攻撃の日です(現地時間では7日午前7:30)。

日本軍の戦死者 64名 捕虜1名 米軍の戦死者 2404名
航空機主体の機動作戦。奇襲作戦とはいえ日本側の大勝利です。日本各地で号外が出て提灯行列。
●1942年2月14日 パレンバン油田の奇襲作戦。
オランダ領スマトラ島南部パレンバン油田を329名(戦死39名)の落下傘部隊でほとんど無傷占領します。パレンバン油田は日本の年間石油消費量を上回る年間産出量があったそうです。
戦いのはじめに石油産出地をいち早く占拠する・・・悲しくなるようなセコイ作戦です。戦局不利になったときの補給を想定してない、日本軍は不敗であると思いこんでいたようです。
南方からの石油補給の予定は1年目が85万㎘、2年目が260万㎘、3年目が530万㎘・・・現実は1年目が150万㎘、2年目は250万㎘とここまではよかったが・・・太平洋上の制海権を失って3年目は100万㎘、4年目の1945年はほとんどゼロ。戦艦大和の出動の燃料は片道切符、飛行機の燃料は松の根の油。
●開戦から半年後の1942年6月5日ミッドウエー海戦。
日本軍の戦死者 3057名 米軍の戦死者 307名
この海戦をターニングポイントにして次々と太平洋上の制海権・制空権を失っていきます。
戦争に必要なのは動力源である石油、武器の素材である鉄、いずれも持たざる国の日本。
大戦前の石油の輸入はほとんどアメリカから。製鉄の素材である屑鉄もアメリカらの輸入でした。それに対して日本は生糸、絹織物、雑貨を細々とアメリカに輸出している経済小国。
太平洋戦争がはじまる2年前に旧満州国とモンゴル人民共和国との間の起きた国境紛争に関連してソ連軍と日本軍の武力衝突がありました。「ノモンハンジ事件」といいます。どちらが勝ったかとか双方の損害はということはおいて、この武力衝突を司馬遼太郎が小説にしようと膨大な資料を集め取材を重ねたそうです(結局書きませんでした)。この取材で、長野県在住のノモンハン生き残りの歩兵連隊長を訪ねて話を聞ききます。この方は「ノモンハンでは我々は元亀・天正のころの武器を持って機関銃、戦車にぶちあたった」と語ったそうです(槍や刀や火縄銃で戦ったわけではありません。火力の差は歴然としていたことをたとえて言ったのでしょう)。元亀は1570~1573年、天正は1573~1593年、織田信長、豊臣秀吉。德川家康の時代です。
1940年参謀本部の研究会での報告書では「(前略)・・・・火力価値の未だ十分にならざるに基因してわが準備を怠り・・・(中略)・・・ノモンハン事件の最大の教訓は、国民伝統の精神威力をますます拡充するとともに、低水準にある火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり」。
そんな教訓を報告しながら、精神主義のみ強調して、火力兵器の向上無きまま、資源のない国が1年後にあの戦争に突き進んでいきます(資源のある国が戦争を仕掛けてイイということじゃありません)。
戦争を知らない人々がほとんどの国になりました。どこかよその国の出来事にも思えます。こんどやったら勝てるなんて思う人もいるかもしれません。戦争は鬼ゴッコや戦争ゴッコではありません。人が死にます。
あの戦争の事実を機会があればできるだけ知ってほしい。どう考えるかはその人の受け取りかたですが。
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