6月28日の某紙朝刊第三社会面より。
天皇・皇后両陛下が日帰りの旅で沖縄まで足を運んで対馬丸記念館を訪ねて慰霊碑仁詣でた・・・その「対馬丸」って何でしょうか。
沖縄が戦火に巻き込まれる1年前の1944年8月22日夜10時12分、沖縄から九州に向けて疎開する学童・一般人合わせて1661名(うち学童は800余名)を乗せて那覇港を出港した日本郵船所有の大型貨物船「対馬丸」が奄美群島の北、トカラ列島の悪石島の西北で米軍の潜水艦魚雷攻撃により沈没した話です。
沈没による犠牲者1476名。生存者は兵・乗組員28名、一般人98名、学童59名。
この話は本土の人にほとんど知られていません。戦中のことであり厳重な箝口令で報道されることがなかったこと、敗戦後27年間、沖縄がアメリカの統治下におかれ日本ではなかったことがそうさせたかもしれません。また沖縄を訪れる内地の人で戦跡に詣でる人は「ひめゆりの塔」「摩文仁の丘」を訪ねても、那覇市波之上の護国寺にある「対馬丸」犠牲学童の記念碑「小桜の塔」を訪ねる人はほとんどいないようです。
このことは2012年12月4日のブログに書き起こしました。
《参考》クリック→「戦時下の沖縄疎開児童を乗せて沈没した・・・対馬丸…のこと」
1944年8月22日沖縄から1661人を載せて本土に向った疎開船「対馬丸」、そのうち800人余が学童疎開、沈没により学童の生存者59名、犠牲者700人余。
明仁天皇(、1933年生まれ)、対馬丸沈没時11歳、対馬丸の犠牲者と同年代。
ここでは天皇についてのことは語りません。
少年時代に戦中を過ごし、惨めな敗戦をつぶさに見てきた世代の一人のヒトとして、戦争の犠牲者を悼む心、考えたい。
5月22日、明仁天皇は渡良瀬川流域の足尾銅山鉱毒のあとを尋ねる私的な旅をされた。
日本における近代公害の原点の旅といい先の戦争の犠牲者の慰霊の旅といい、何かメッセージをおくっているのだろうか。
※カテゴリー「沖縄のこと」…クリックして読んでいただけたら…。