比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

武蔵国・・・吉見御所・・・源範頼の館跡・・・息障院

2012-02-08 | 古墳・遺跡・石塔婆
吉見の八丁湖・・・このあたり御所村といいました。
御所・・・鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟、源範頼が領したことからといわれます。

いつも散歩している比企の低山の麓に源範頼の館跡といわれる古刹息障院があります。
八丁湖に行く道すがら寄ってみました。

山門にいたるアプローチ、石柱が立っています(読めません)。
源範頼館跡という石柱が立っています。

参道・・・梅の木が両側に並んで・・・簡素な四脚門の山門。真言宗智山派岩殿山息障院光明寺

室町時代のものといわれる萱葺の地蔵堂、享保の文字が見える宝篋印塔、地蔵様たち、なぜか天満宮が?

150m四方くらいの境内ですが落ち着いた雰囲気です。


息障院・・・700年代はじめごろ行基により開基、800年代はじめに坂上田村麻呂が建立したといわれます。この寺の西方に坂東札所として名高い安楽寺があり、やはり行基の開基、田村麻呂の建立と伝えられます。いまは三重塔のある安楽寺のほうが坂東11番札所吉見観音として有名ですが息障院はもとは安楽寺の北方の八丁湖の麓にあり、安楽寺と一体をなす伽藍の本丸であったそうです。範頼の後裔が居館にしたという現在地に移転したのは江戸時代初期。お館らしい空堀、水堀が残っています。

さて源範頼です。
イイ国造る(1192年)鎌倉幕府を開いた源頼朝(義朝の三男1147~1199年)の弟(六男1150~1193年)、義経(九男1159~1189年)、いずれも異母ですから兄弟といっても別々に育ち庇護者も違い義経なんか年齢も大きく違いますから他人みたい(頼朝にとって他人以上に排除の対象になります)。「平家物語」、吉川英治の「新平家物語」、NHKの大河ドラマでもたびたび取り上げられていますが範頼という人は頼朝、義経の間に挟まれて影が薄い(わたしも比企地方に住むまで存在をよく知らなかった)。
生まれは静岡県蒲御厨(御厨とは皇室の荘園)・・・現浜松市神立町・・・の生まれ・・・幼少期は蒲冠者(北本市石戸の蒲桜はこれにちなむ)、蒲御厨で育ったかどうかは不明、吉見観音安楽寺の稚児僧として育ったとも。
頼朝挙兵に加わり源平合戦(治承寿永の乱1180~1185年)で重要な役割を担うも義経に比べて物語上ではパッとしない。義経のように劇的な最後は遂げませんが、頼朝に謀反の疑いをかけられ修善寺に流刑(その後は不明、暗殺されたとも、逃亡したとも)。
こうして公家の支配する国から地方武士の支配する国に変換させた頼朝は弟を殺し、子を殺し、源氏ブランドは鎌倉幕府の表舞台から消えて行きます。

その後の範頼一族・・・比企地方を地盤とする比企氏一族で頼朝の乳母比企尼(孫娘が範頼の妻)の嘆願により範頼の子たちは助命されこの地を領する御家人になります。

範頼館跡・・・範頼は吉見御所ともいわれていたようですが住んでいたかどうかはっきりしないようです。不在地主だったかも?その子たちがこの地を領し吉見氏を名乗り、やがてその一族も石見吉見氏、能登吉見氏として異動していき戦国時代、江戸時代に他の組織に組み込まれその名が埋もれていきます。

大きなお寺ではありませんが歴史の風が吹くお寺です。散歩の途中よって見ました。


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