比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

彩の国・・・川本の白鳥飛来地のそばの・・・鹿島古墳群とはこんなところ

2015-01-27 | 古墳・遺跡・石塔婆
いつもわたしのブログにコメントを送ってくださる広島県福山市神辺町の「自然を尋ねる人さん」から要望があり、わたしが白鳥に逢いに行く川本の本田、駐車場のそばの鹿島古墳群、ここの説明をもっと詳しくとのこと。
自然さん」の地元ではいま「神辺御領古墳」(東西1.6㎞、南北1.4㎞)の発掘調査中だそうだ。比べて見たいのかな。
ご要望に応えて、白鳥に逢いに行ったとき蝋梅の花見を兼ねて古墳群を少し歩き回り、写真を撮りました。以下はそのレポートです。

古墳内にある説明板・・・鳥瞰図です。
下の部分が荒川(白鳥飛来地)、河岸段丘に沿って東西に2㎞、円墳が点在します。
古墳の外側は畠、境界に桜の植栽。円墳の周りは草地にしてあります。春は菜の花、秋はヒガンバナが咲くそうです。
このあたりの草地では菜の花はこぼれダネで繁殖していきますし、ヒガンバナは球根で自然に増えていきます。

小円墳です。直径5m~10m、高さは1m~1.5m。意外に小さいですね。

円墳の上、もとは土饅頭状で川原石で覆われていたというが長い年月で土が被り草木が繁ってしまった。

石碑?、石仏?・・・ワカリマセン・・・文字も風食で消えている。

52号古墳。

古墳・・・土を盛り上げ内部に遺骸を葬る古代の墓。1700年前(4世紀)から1300年前(8世紀)、地方の有力者(豪族)が葬られているといわれる。前方後円、円墳、方墳とかがある。内部に長さ4m、幅2m位の石室があり、太刀、刀子、弓矢、玉、耳環、埴輪などの副葬品が出土する。箸墓古墳、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が有名だが日本中いたるところにあるわけ。奈良明日香の石舞台は墳丘が流れ石室が露出したものではないかといわれているが定かではない。
鹿島古墳群・・・6世紀から8世紀はじめまで。100基を超えるといわれ、1970年圃場整備計画に伴い27基の発掘調査を行い1972年54基が県の指定史跡に。方墳が1基、ほかは小円墳。1993年鹿島古墳公園整備。

※「自然を尋ねる人さん」の神辺御領遺跡・古墳の紹介ブログデス→クリック

古墳群の片隅、むかしのお墓の空気を壊さないところに蝋梅林があります。
1月25日現在、いまが満開です・・・静かにロウバイの花を楽しみに来ているかたがいます。

蝋梅のトンネル・・・木の幹に寄贈者の名前を記した白い札がついています。・・○年〇月結婚記念□野○郎・△子・・・ナンちゃって。


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6 コメント

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古墳 (こきおばさん)
2015-01-27 06:41:42
この辺りでも古墳じゃないかしら?と思われる場所が何ヶ所かあります。調べててみる気にならない所がヒキノサマと違うところだ!と感じています。

ロウバイって本当に蝋で出来ているように見えますね。
トンネルになっているなんて素敵!
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古墳の丘 (自然を尋ねる人)
2015-01-27 18:41:57
私、備後の国の住人です。
先日、卑弥呼の時代の屋形船の絵図が出土した土器から見つかり大騒ぎになっています。
その場所は吉備の国の西端、婀娜の国の地から発見されました。
現在では神辺平野と呼ばれますが縄文後期、弥生時代古墳時代とこの地がいかに大きな都だったかと言うことが山に残る古墳の数でわかります。
近々斜面の古墳群をUPしますが県の記録では100基程、それを地元のボランテァ団体が調査、場所をGPSを使い地図へ落として言っていますが210基を超えました。

古い本では600基を超えていたと言う記載もあります。事実林道や山に公園をつくったりしたとき大量に壊されています。
私が取り組んでいる砂防堰堤でも沢山の古墳の石が使われていたとの説があります。
と言うような理由でご無理を言いました。
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こんにちは (多摩NTの住人)
2015-01-28 08:30:21
荒川沿いに古墳群があるんですね。以前、多摩川沿いを歩いた時、田園調布あたりに古墳群がありました。古代のロマンを感じますね。
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古墳 (多摩NTの住人さんへ・・・ヒキノ)
2015-01-28 12:46:35
古墳とは古代3世紀~8世紀のはじめごろまでのお墓。有力者のでしょうね。一般人はただ埋葬されるだけ。仏教の到来とともにこういう大きな墳丘のものはなくなったようです。
墳丘そのものも大陸からの風習が伝わったようです。墳丘の中に石室があり石で覆われていたそうで、なぜかミニピラミッドですね。

日本中、人の居住したところにあるはずです。
人の居住しているところ、田畑にはなくて丘陵とか河岸段丘の上の田地にならないところが多いと思います。
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丸い墳丘 (こきおばさんへ・・・ヒキノ)
2015-01-28 12:51:53
けっこうあちこちにあります。
古代に造られたものですからそこの支配者が滅び、中世、近世になると田畑として開発されたりして消えていったのが多いはずです。
ここは農地整理で荒地から出てきたので仕方なく残したのでしょう。
青森の三内丸山は総合運動場開発で出てきたものです。
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神辺の遺跡、古墳は (自然を尋ねる人さんへ・・・ヒキノ)
2015-01-28 13:07:33
まだ調査開始の段階のようですね。
Wikipediaには載っていません。第○○次調査報告なんていうネット記事が目立ちますね。これからでしょう。
奈良は全体が遺跡の上に乗っかってるようなものといわれますが、小さなものは調査後、埋め戻してしまうそうです。地権者の問題がありますからね。
三内丸山、吉野ケ里などは大規模開発の途中で偶然出てきてしまったもの。そうなると開発は代替地にせざるを得ません。痛し痒しです。
子だの古墳、遺跡は中世、近世に居住地になったり田畑になったでしょう。そのころは歴保存なんて考えませんから。
神辺の墳丘、石で覆われていたのかも。砂留の石材に使われた。頷けます。
鹿島古墳群の墳丘、川原石で覆われていたそうです。
古墳はいずれ公園にしたいですね。ごてごていろんな花を列植せず、静かな雰囲気にしてください。
鹿島古墳公園、菜花とヒガンバナだけ・・・あれはイイです。年2回ぐらいの草刈だけでいいはずです。
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