ふと思いついて上州富岡市の古い古い歴史の官営富岡製糸場に寄ってみました。
明治維新の夜明け、戊辰戦争が終わり廃藩置県、戸籍法が制定されたのは1971年、その1年後ここ群馬県の富岡市に15000坪(5㌶)の大工場が出現します。
富国強兵、外貨を稼ぐ輸出商品は絹と茶、当時のヨーロッパの絹生産国(イタリア、フランス)で蚕の病気の発生など 要因があったようですが1870年官営富岡製場糸場が建議されます。ここら辺は教科書で習ったような覚えがあります。洋行帰りの大蔵民部省官吏渋沢栄一がこの開設に奔走。同年フランスの生糸問屋の横浜支店に来ていたブリューナを企画実行の総責任者として契約、義兄で論語などを教えてくれた尾高惇忠を工場長に指名。ブリューナは埼玉、群馬、長野で物件探し。生糸の生産地が後背地にある、工場土地が確保できる、建築資材が現場調達できる、水資源・石炭資源がある・・などの条件をクリアーしたのが富岡。工女の募集は尾高惇忠が自分の娘を工女第1号として、苦労の末、工場の機械に対応する300人余を確保します。
繭倉庫、繰糸場、繭煮場、乾燥場など操業に必要な建物はすべて着工から1年後の1972年に完成します。木骨煉瓦造り、基石は甘楽町小幡の砂岩。煉瓦は甘楽町福島に窯をつくって焼成。白い目地は下仁田町青倉産の石灰からつくった漆喰で。動力源は高崎・吉井の山中から採鉱される亜炭で。資材はすべて国産。
官営富岡製糸場。明治5年(1972年)10月4日操業開始。
東繭倉庫の玄関上部に「明治5年」(1872年)の石板が。煉瓦の積み方はフランス積み。
ここで一つ疑問が。明治5年、流通アクセスはどうしたでしょうか。上野・高崎間の鉄道が開通は10年後。上信電鉄高崎・下仁田間が開通は25年後です。利根川水系鏑川に小幡町の福島に舟運河岸があったのですが繰糸機の搬入、製品の搬出などは舟運だったのでしょうか。街道は現254号線、中山道姫街道とか下仁田街道とか呼ばれる徒歩の道です。
そんな環境で立ち上がった近代化の先駆け・・・凄いパワーを感じます。
東繭倉庫。外の突き出ている梁の木口。2本の梁をボルトで止めている。集荷した繭を煮て(蒸殺)乾燥させてここでストックした。長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m。西側に同じ大きさの西倉庫が。
壁面の写真。
繰糸場・・・正面。屋根の上にさらに蒸気抜きの屋根が見える。長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m。
繰糸場の横から見たところ。IFであるが窓は採光のため3F。
繰糸場内部。フランス製繰糸機300釜。当事世界最大規模。現在は1965年ごろの日本製の繰糸機が。天井はトラス梁構造(Ⅴ字型のカスガイ)で柱がない。窓が大きく天井に蒸気抜きが。
下の3棟は1973年の建造。コロニュアル方式建築・・・回廊式ベランダは長崎のグラバー邸を彷彿させる。
ブリューナ館・・・320坪。仏人のお雇い指導者ブリューナの家族宿舎。明治8年(1875年)の契約満了まで居住。そのご工女の夜学校、片倉富岡高等学園として使われていた。
女工館・・・工女さんを指導するために来日したフランス人工女さんの宿舎。
検査人館。ブリューナと同時期に雇われた外人技師の住居。事務所に使われ、2Fは皇室関係、政府高官の貴賓室。
日本の近代化の先駆けとしてつくられた官営製糸場、莫大な国費を投じて民間の製糸業を起こさせるための役割をじゅうぶんに果たしたのち、1893年三井家に払い下げられる(御用商人に払い下げというところが面白い)。9年後に原合名会社に譲渡(横浜三渓園を作った生糸王)。原三渓の衰退後の1938年片倉工業に。1987年操業停止。2005年富岡市に寄贈。2006年国指定重要文化財に。
115年間の操業の歴史。片倉工業だけでも48年間、診療所や高等学園も開設していたようです。
国力を賭けて採算を度外視してつくった官営富岡製糸場、その役割は民間の産業振興、早くも2年後の1974年桐生に日本人による機械式製糸場ができます。富岡の工女は技術指導員として全国に配置されていきます。生糸王国日本はこの民間、組合製糸の躍進がつくったといわれます。
封建社会から近代資本主義経済に切り替わる区切りの時代の貴重な歴史的産業遺産です。
場内説明は地元ボランティアのかたが素晴らしい語りで。ありがとうございました。
もっとじっくり見てみたい。写真アングルももっと考えたい。また来てみよう。
ブリューナの年俸、尾高惇忠のこと、松代藩士の娘の工女横田英のこと、製糸女工の光と影・・・など調べていくと面白い。
群馬県富岡市・・・上信越自動車道富岡IC。東京から130km。長野、軽井沢方面に行った際、寄り道してもいいところです。
明治維新の夜明け、戊辰戦争が終わり廃藩置県、戸籍法が制定されたのは1971年、その1年後ここ群馬県の富岡市に15000坪(5㌶)の大工場が出現します。
富国強兵、外貨を稼ぐ輸出商品は絹と茶、当時のヨーロッパの絹生産国(イタリア、フランス)で蚕の病気の発生など 要因があったようですが1870年官営富岡製場糸場が建議されます。ここら辺は教科書で習ったような覚えがあります。洋行帰りの大蔵民部省官吏渋沢栄一がこの開設に奔走。同年フランスの生糸問屋の横浜支店に来ていたブリューナを企画実行の総責任者として契約、義兄で論語などを教えてくれた尾高惇忠を工場長に指名。ブリューナは埼玉、群馬、長野で物件探し。生糸の生産地が後背地にある、工場土地が確保できる、建築資材が現場調達できる、水資源・石炭資源がある・・などの条件をクリアーしたのが富岡。工女の募集は尾高惇忠が自分の娘を工女第1号として、苦労の末、工場の機械に対応する300人余を確保します。
繭倉庫、繰糸場、繭煮場、乾燥場など操業に必要な建物はすべて着工から1年後の1972年に完成します。木骨煉瓦造り、基石は甘楽町小幡の砂岩。煉瓦は甘楽町福島に窯をつくって焼成。白い目地は下仁田町青倉産の石灰からつくった漆喰で。動力源は高崎・吉井の山中から採鉱される亜炭で。資材はすべて国産。
官営富岡製糸場。明治5年(1972年)10月4日操業開始。
東繭倉庫の玄関上部に「明治5年」(1872年)の石板が。煉瓦の積み方はフランス積み。
ここで一つ疑問が。明治5年、流通アクセスはどうしたでしょうか。上野・高崎間の鉄道が開通は10年後。上信電鉄高崎・下仁田間が開通は25年後です。利根川水系鏑川に小幡町の福島に舟運河岸があったのですが繰糸機の搬入、製品の搬出などは舟運だったのでしょうか。街道は現254号線、中山道姫街道とか下仁田街道とか呼ばれる徒歩の道です。
そんな環境で立ち上がった近代化の先駆け・・・凄いパワーを感じます。
東繭倉庫。外の突き出ている梁の木口。2本の梁をボルトで止めている。集荷した繭を煮て(蒸殺)乾燥させてここでストックした。長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m。西側に同じ大きさの西倉庫が。
壁面の写真。
繰糸場・・・正面。屋根の上にさらに蒸気抜きの屋根が見える。長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m。
繰糸場の横から見たところ。IFであるが窓は採光のため3F。
繰糸場内部。フランス製繰糸機300釜。当事世界最大規模。現在は1965年ごろの日本製の繰糸機が。天井はトラス梁構造(Ⅴ字型のカスガイ)で柱がない。窓が大きく天井に蒸気抜きが。
下の3棟は1973年の建造。コロニュアル方式建築・・・回廊式ベランダは長崎のグラバー邸を彷彿させる。
ブリューナ館・・・320坪。仏人のお雇い指導者ブリューナの家族宿舎。明治8年(1875年)の契約満了まで居住。そのご工女の夜学校、片倉富岡高等学園として使われていた。
女工館・・・工女さんを指導するために来日したフランス人工女さんの宿舎。
検査人館。ブリューナと同時期に雇われた外人技師の住居。事務所に使われ、2Fは皇室関係、政府高官の貴賓室。
日本の近代化の先駆けとしてつくられた官営製糸場、莫大な国費を投じて民間の製糸業を起こさせるための役割をじゅうぶんに果たしたのち、1893年三井家に払い下げられる(御用商人に払い下げというところが面白い)。9年後に原合名会社に譲渡(横浜三渓園を作った生糸王)。原三渓の衰退後の1938年片倉工業に。1987年操業停止。2005年富岡市に寄贈。2006年国指定重要文化財に。
115年間の操業の歴史。片倉工業だけでも48年間、診療所や高等学園も開設していたようです。
国力を賭けて採算を度外視してつくった官営富岡製糸場、その役割は民間の産業振興、早くも2年後の1974年桐生に日本人による機械式製糸場ができます。富岡の工女は技術指導員として全国に配置されていきます。生糸王国日本はこの民間、組合製糸の躍進がつくったといわれます。
封建社会から近代資本主義経済に切り替わる区切りの時代の貴重な歴史的産業遺産です。
場内説明は地元ボランティアのかたが素晴らしい語りで。ありがとうございました。
もっとじっくり見てみたい。写真アングルももっと考えたい。また来てみよう。
ブリューナの年俸、尾高惇忠のこと、松代藩士の娘の工女横田英のこと、製糸女工の光と影・・・など調べていくと面白い。
群馬県富岡市・・・上信越自動車道富岡IC。東京から130km。長野、軽井沢方面に行った際、寄り道してもいいところです。
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