比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

今日は何の日・・・74年前の・・・8月9日・・・ソ連軍が満州国に襲いかかった

2019-08-09 | 語り継ぐ責任 あの戦争
今から74年前の1945年8月9日未明、満州国(現在の中国東北部)にソ連は「日ソ中立条約」を破棄して150万人の兵力で満州全体に襲いかかかります。これに対して日本軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦をとりました(進攻を察知して南に逃げたという人もいます)。・・・このためほとんどの開拓民は日本軍の範疇の外に置き去りにされました。

日ソ中立条約破棄の謎・・・1945年2月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国の米・英・ソの三国首脳がドイツの降伏後の戦後処理を決め、併せて米・ソ首脳間(ルーズベルト・スターリン)でドイツ降伏90日後にソ連が対日参戦する秘密協定を結びます・・・千島・樺太の処遇つきのオイシイ話つき・・・ということになっています。世に言うヤルタ会談です。米ソ首脳の駆引きのように思えます。戦争というものは条約なんて糞喰らえなんです。
5月7日ドイツ降伏文書調印、5月8日降伏文書批准調印(ソ連時間9日)。ソ連軍はヨーロッパからソ満国境に兵力を着々と移動します。3ヶ月後が待ち遠しかったでしょうね。

それからあとのこと。
歴史にifはないけれど
・・もう少しソ連軍の参戦が早かったら・・・日本はどうなっていただろうか。南北朝鮮、東西ドイツの影が見えてきます。
・・・もう少し終戦の詔勅が早かったら・・・樺太、歯舞、色丹、国後はどうなっていただろうか。


ヤルタ協定》・・・ソ連の参戦を要請したルーズベルトとスターリンの密約・・・ヨーロッパ在住の大使館付き武官からこの情報が入っていたという資料が最近になって判明しています。

ソ連軍参戦の情報を知った日本軍(関東軍)は秘密裏に開拓民の多いソ満国境から南下して新京、大連に防衛ラインを敷きます。自国民を守るという軍の本質を放棄したのです。そのため橋を落され鉄道を破壊され退路を断たれた辺境の開拓民は置き去りにされ様々な筆舌に尽くせない悲劇を生みました。
敗戦後、無血武装解除を行いますが山田乙三司令長官以下全将兵はシベリア抑留生活を送ることになります。その兵のうち25万人は在満邦人を現地応召したものでした。
敗戦直前、ハルピンにいた731部隊はいち早くすべての資料を隠匿して特別列車、特別船で日本に帰国したといわれます。

敗戦当時、在満日本人155万人、シベリア抑留60万人。生きて日本に帰れなかったもの17万6千人・・・うち開拓農民27万人(死者8万人)。中国残留孤児8000人~10000人・・・13歳以上を残留婦人というのだそうです・・・詳しい数字はわかりません。

第二次世界大戦とは何、日中戦争って何、満州国って何、満蒙開拓団って何、
日ソ中立条約って何、ヤルタ協定って何、8月15日って何の日。
少しだけでもイイから知ってほしい。

「前事不忘 後事之師」・・・過去を忘れずに 未来の教訓とする。


※コメント欄オープン。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ブログを進めていくうちに (こきおばさんへ・・・)
2019-08-12 10:07:38
いろいろなことを知りました。ソ連参戦はヤルタ協定で生まれた。
日ソ中立協定を破ったソ連憎しと思っていたのが、アメリカも加担していたのかとわかりました。
もう少し敗戦の詔勅が遅れていたら、日本も東西分裂でした。
ソ連参戦で「被虐の歴史」が生まれますが「加虐の歴史」のあったことも知ります。
全ては戦争です。

次の世代の人に少しでイイから少しずつほんとうの歴史を知ってもらいたい。
返信する
そうでした・・・・・ (こきおばさん)
2019-08-10 07:28:20
そうでした。私たちは棄民でした。
戦争中は軍隊が守ってくれると教えられ、信じ込んでいました。
引き揚げてくるとき、私たち一族は遺骨を7柱持って帰ってきたのです!
軍隊は決して国民は守りません!!
返信する

コメントを投稿