5月16日、信州上田市の県立上田千曲高等学校の一隅にある」「上田飛行場跡碑」を尋ねました。
上田千曲高等学校のグランド入口でしょうか。あの戦争に敗れたときまであった上田飛行場(熊谷陸軍飛行学校上田分教場)の正門跡です。
正門跡の数m左に上田飛行場跡の石碑・・・長文の碑文が刻まれています。
このブログはその続編・・・上田市の西の山中に秘かに造られた軍需工場の話しです。
上田市仁古田の三菱重工業飛行機製作所工場跡です。
国道143号線(上田~松本線)仁古田交差点から県道177号線を舞田方面に、道路際に案内板があります。
壕内の崩落が激しく中には入れません。
説明パネルです。
71年前のことです。すでに歴史遺産になりました。わたしたちはこの遺産から何を聞きだせばいいのでしょうか?
上田千曲高等学校のグランド入口でしょうか。あの戦争に敗れたときまであった上田飛行場(熊谷陸軍飛行学校上田分教場)の正門跡です。
正門跡の数m左に上田飛行場跡の石碑・・・長文の碑文が刻まれています。
このブログはその続編・・・上田市の西の山中に秘かに造られた軍需工場の話しです。
いまから70年前、太平洋戦争の末期、日本は敗色濃厚、制空権も制海権もアメリカ軍に制圧され、日本本土は連日のように空襲の雨にさらされます。
特に軍需上場の集中する名古屋地区は集中的に空襲の標的になり、さらに1944年12月7日に名古屋地区を襲ったマグニチュード8の東南海大地震により壊滅的な打撃を受けます。特に被害の大きかったのは三菱重工業名古屋航空機製作所本社大江工場、道徳工場、瑞穂工場など。この地震では多数の学徒勤労動員生徒が犠牲になりました。12月13日の大空襲では日本の航空機エンジンの約4割を生産していた三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が集中的に攻撃されました。
三菱重工業飛行機製作所では第五製作所を上田地区に移転させるべく地下工場建設を1945年6月にはじめました。その名は略号で「ウ工事」。敗戦の2か月前です。工事は朝鮮人労働者4400人、上田・小県地区の勤労奉仕隊が従事。敗戦の日まで50m~100mのトンネルが20数本が掘削されていたといいます。
場所は上田市仁古田、東塩田、八木沢、川辺・・・いまは仁古田の山中に洞窟の跡が戦争遺跡として残されています。
特に軍需上場の集中する名古屋地区は集中的に空襲の標的になり、さらに1944年12月7日に名古屋地区を襲ったマグニチュード8の東南海大地震により壊滅的な打撃を受けます。特に被害の大きかったのは三菱重工業名古屋航空機製作所本社大江工場、道徳工場、瑞穂工場など。この地震では多数の学徒勤労動員生徒が犠牲になりました。12月13日の大空襲では日本の航空機エンジンの約4割を生産していた三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が集中的に攻撃されました。
三菱重工業飛行機製作所では第五製作所を上田地区に移転させるべく地下工場建設を1945年6月にはじめました。その名は略号で「ウ工事」。敗戦の2か月前です。工事は朝鮮人労働者4400人、上田・小県地区の勤労奉仕隊が従事。敗戦の日まで50m~100mのトンネルが20数本が掘削されていたといいます。
場所は上田市仁古田、東塩田、八木沢、川辺・・・いまは仁古田の山中に洞窟の跡が戦争遺跡として残されています。
上田市仁古田の三菱重工業飛行機製作所工場跡です。
国道143号線(上田~松本線)仁古田交差点から県道177号線を舞田方面に、道路際に案内板があります。
壕内の崩落が激しく中には入れません。
説明パネルです。
71年前のことです。すでに歴史遺産になりました。わたしたちはこの遺産から何を聞きだせばいいのでしょうか?
※上記2枚の写真は「上田六文銭」さんにお願いして9月21日に撮ってもらいました。
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全国いたるところで朝鮮人徴用者が働いていたようですから、いろいろなことが あったでしょうね。
吉見の軍需工場建設では過酷な労働とか逃亡とかは記録には出てきません。彼らは帰るとき朝鮮の国花ムクゲを記念樹として植えて行ったそうです。
過去のことを学んで未来があることを知ってほしい。
かなりの人数が朝鮮半島から強制的に連れてこられたようです。
そのような事はなかなか知る機会がありません。その後の
朝鮮人は帰国した人もいたようですが日本に残った人も
かなりいたようです。日韓関係が慰安婦問題でギクシャク
していますが日韓が仲良くできないというのは日本に残った
朝鮮人にとっても不幸ですね。
私も折にふれて「戦争」を伝えなければ!と思いますが、なんとか子ども世代には伝わりますけれど、孫世代に伝える難しさを感じています。
生きているうちに伝えなければ!と思う毎日です。