埼玉県が生んだ偉大な俳人「金子兜太」(かねことうた)・・・が20日亡くなられました。
2015年7月16日のブログをリライトして・・・哀悼・・・
金子兜太さん・・・金子さんにとって俳人とは「ニンベンに非・・・人に非ず」と母に止められていたそうですが、知らず知らずのうちに入った道のようです。
旧制熊谷中学、旧制水戸高校、旧制東京帝国大学、海軍主計中尉、日本銀行員・・・俳人は裏の顔です(俳人では食っていけませんから)。
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金子兜太(1919~2018年)・・・98歳、母の実家の埼玉県比企郡小川町で生まれ幼少期を中国上海、少年期を父の故郷の埼玉県秩父郡皆野町で過ごす。父は開業医で伊昔紅と名乗る俳人、秩父音頭再興の人(美の山公園にブロンズ像が建てられています)。
旧制熊谷中学、旧制水戸高校、東京帝国大学繰り上げ卒業、1943年日本銀行入行、3日間で退職、海軍経理学校へ、海軍主計中尉に任官、1944年南太平洋ミクロネシアのトラック島第四海軍施設部に赴任。施設建設のために応募した工員を管理。トラック島は米軍の飛び石作戦の埒外にされたため上陸されることもなかったのですが補給ルートを断たれたため孤島となって終戦を迎えます(米軍にほっとかれた)。そのため食料は自給自足、2年で5回収穫できる薯を栽培、食べられる野草、小動物、昆虫はすべて食べて飢えを凌ぎます。多くの人が餓死と栄養失調、ときどきある機銃掃射で死んで行きます。トラック島にいた兵士50000人のうち30000人以上が戦闘ではなく餓死したといわれます。生き残ったのは「運」だけのようです。やがて敗戦、捕虜として労働、1946年11月最後の引揚げ船に乗って日本に向かいます。島に眠る戦没者の墓碑が船の上の自分を見ているような思いがしたといいます。
日本銀行復職、旧帝大卒ですからエリートコースに乗れたのでしょうが、当時の日銀の中の組織の閉鎖性に抵抗して、身分給廃止、学閥人事廃止、生活給確保を訴え日本銀行従業員組合初代専従事務局長に。労働協約も作ったそうです。それが影響してか福島、神戸、長崎の支店を回り、最後は日銀本店の巨大金庫の鍵を預かる文字通り金庫番で勤めを終えます。
組合運動に身を投じたのは南の島で非業の死を遂げた戦友、工員たちへの思いだったからでしょうか。
金子兜太さんの思い・・・
次世代を生きていくみなさん・・・先人たちが経験した愚かな(砲撃で肉が飛び原爆で焼けただれ南の島で餓死した)戦争を反面教師として正しい歴史認識をしてください・・・
そんな思いが込められていたように思えてなりません。
2015年7月16日のブログをリライトして・・・哀悼・・・
金子兜太さん・・・金子さんにとって俳人とは「ニンベンに非・・・人に非ず」と母に止められていたそうですが、知らず知らずのうちに入った道のようです。
旧制熊谷中学、旧制水戸高校、旧制東京帝国大学、海軍主計中尉、日本銀行員・・・俳人は裏の顔です(俳人では食っていけませんから)。
●金子兜太・半藤一利対談「今、日本人に知ってもらいたいこと」(㏍ベストセラーズ 2011年刊)
●わが俳句人生 金子兜太「語る兜太」(岩波書店 2014年刊)
●金子兜太「私の骨格 自由人」(NHK出版 2012年刊)の中の文と写真です。
緑陰に秩父の人の話し声・・・・・・という俳句と釜伏峠あたりの写真が写されています。
●わが俳句人生 金子兜太「語る兜太」(岩波書店 2014年刊)
●金子兜太「私の骨格 自由人」(NHK出版 2012年刊)の中の文と写真です。
緑陰に秩父の人の話し声・・・・・・という俳句と釜伏峠あたりの写真が写されています。
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金子兜太(1919~2018年)・・・98歳、母の実家の埼玉県比企郡小川町で生まれ幼少期を中国上海、少年期を父の故郷の埼玉県秩父郡皆野町で過ごす。父は開業医で伊昔紅と名乗る俳人、秩父音頭再興の人(美の山公園にブロンズ像が建てられています)。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
山なみの一と隅明し蚕の眠り
山なみの一と隅明し蚕の眠り
旧制熊谷中学、旧制水戸高校、東京帝国大学繰り上げ卒業、1943年日本銀行入行、3日間で退職、海軍経理学校へ、海軍主計中尉に任官、1944年南太平洋ミクロネシアのトラック島第四海軍施設部に赴任。施設建設のために応募した工員を管理。トラック島は米軍の飛び石作戦の埒外にされたため上陸されることもなかったのですが補給ルートを断たれたため孤島となって終戦を迎えます(米軍にほっとかれた)。そのため食料は自給自足、2年で5回収穫できる薯を栽培、食べられる野草、小動物、昆虫はすべて食べて飢えを凌ぎます。多くの人が餓死と栄養失調、ときどきある機銃掃射で死んで行きます。トラック島にいた兵士50000人のうち30000人以上が戦闘ではなく餓死したといわれます。生き残ったのは「運」だけのようです。やがて敗戦、捕虜として労働、1946年11月最後の引揚げ船に乗って日本に向かいます。島に眠る戦没者の墓碑が船の上の自分を見ているような思いがしたといいます。
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
日本銀行復職、旧帝大卒ですからエリートコースに乗れたのでしょうが、当時の日銀の中の組織の閉鎖性に抵抗して、身分給廃止、学閥人事廃止、生活給確保を訴え日本銀行従業員組合初代専従事務局長に。労働協約も作ったそうです。それが影響してか福島、神戸、長崎の支店を回り、最後は日銀本店の巨大金庫の鍵を預かる文字通り金庫番で勤めを終えます。
組合運動に身を投じたのは南の島で非業の死を遂げた戦友、工員たちへの思いだったからでしょうか。
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
人体冷えて東北白い花盛り
死の戦場知らぬ政治家得意顔
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
人体冷えて東北白い花盛り
死の戦場知らぬ政治家得意顔
金子兜太さんの思い・・・
次世代を生きていくみなさん・・・先人たちが経験した愚かな(砲撃で肉が飛び原爆で焼けただれ南の島で餓死した)戦争を反面教師として正しい歴史認識をしてください・・・
そんな思いが込められていたように思えてなりません。
・秩父人の 魂叫びつづけて 兜太逝く 比企の村びと
・荒川の 魂叫び 兜太逝く 縄文人
・出でては 土に鍬を 取りだんべいなぁ 縄文人
・荒川の 魂叫び 兜太逝く 縄文人
・出でては 土に鍬を 取りだんべいなぁ 縄文人
※コメント欄開いています。
そのものズバリ5・7・5に織り交ぜて詠むでした。
奥さんが先に亡くなられた。
秩父音頭の作詞者、
皆野町の金子病院の院長・金子元春(号:伊昔紅)です。
その昔、手ぬぐいに染め抜いた歌詞が、殆どの家に在りました。我が家にもありました。
最後に:伊昔紅と書いて。
この元春先生は、農家の患者さんが多い。野菜でお勝手は一杯になったとか。
診療代を野菜で……。
そんな人だったそうです。
緑陰に秩父の人の話し声・・
きっと、”だんべぇ”でしょう。
次の2句が気に入りました。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
山なみの一と隅明し蚕の眠り
ヒキノさんは、金子先生の本をこんなに読まれたんですか。
凄い!!
≪俳人は金にならない!≫
しかし、鎧の様な俳人、親の背中を見て育ったのでしょう。
・秩父人の 魂叫びつづけて 兜太逝く
金子兜太と言うお名前は日本中を覆った「アベ政治を許さない」と言うあの書でした。瀬戸内寂聴さんの要望で書かれたとか。
平和を愛し、平和の大切さを説き、平和を守ることを訴え続けた方だったのですね。
「戦争体験のない人間が政治の中枢にいること」に限りない不安をお持ちったことだと思います。
また、リツイートさせていただきました。
「アベ政権を許さない」という声が日本中を揺り動かさない現状・・・
非正規社員、物価高、超低利子・・・何一ついいところがない政策の政府、韓国冬季オリンピックで出席して存在感もなく無視された首相ですが国民は無言です。
朝日新聞では朝刊、夕刊で一面に掲載、掲載された句は私の選んだ句と同じでした。
この句をじっくり読んでもらいたいです。
気取らずに自然で、笑いもあり、大好きでした。
その陰に、想像もできない戦争体験があったんですね。
一つのことを言い続ける凄さ、借り物でなく、自分を持ちなさいと言われているようです。
若い人は、知らないようで、コメントいただいて、嬉しかったです。有難うございます。
同じ埼玉県人・・・山の中の秩父の人。
追悼文、ありがとうございました。