・・・彩風人の~写真帳・・・
コロナ禍戒厳令前の台湾へ・・・
台北市から台南市まで台湾高速鉄路に乗っての乗り鉄旅。
台湾鐵路の台南車站・・・のホーム・・・
高鐵台南車站の連絡駅沙崙線沙崙(さろん)車站から到着したEMU600型電車。
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一番ホームから改札口・・出口に・・・
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1900年開業台南車站・・・1936年完成の2代目駅舎。国定古蹟。現在、改装中。
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高鐵台南車站の連絡駅沙崙線沙崙(さろん)車站から到着したEMU600型電車。
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一番ホームから改札口・・出口に・・・
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1900年開業台南車站・・・1936年完成の2代目駅舎。国定古蹟。現在、改装中。
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※撮影日は2月21日。
《台湾農業の恩人、ダムの父…八田與一のこと》
☆台南市から北東に約30km・・・日本の統治時代の1930年に竣工した烏山頭ダム・・・そのダムサイトに八田與一記念公園、八田與一と夫人の銅像が。
☆八田與一(1886~1942年)…台湾総督府の水利技術者、嘉南地方を台湾の穀倉に育て上げた烏山頭ダムを計画、推進して、竣工にこぎつけた人。完成の1年後。住民の民意により銅像が建立。八田はその後フィリピンの水利のため長崎から任地に赴く途中、米軍潜水艦によって輸送船が沈められ殉職。夫人は敗戦後の1945年烏山頭ダムの放水路に身を投げて夫の後を追った。
☆八田與一の銅像・・・日本の植民地政策の示威のために造られたものではない。地元民の浄財によって建立されたもの。あの戦争の末期、金属回収されそうになるのを地元民は隠匿、戦後、中華民国政府の上陸により取り壊しの命令を受けたが地元民が隠匿。ようやく元の位置に戻ったのは1990年代の台湾の民主化後のこと。その後、心なき人に損壊されたが復元されている。
☆烏山頭水庫(ダム)・・・堰堤高さ66.66m、堰堤長さ1273m、堰堤の左右の幅が長い。石と粘土を積み上げたロックフィル・ダム。
★植民地を支配する側の一技術者が支配される側の人にリスペクトされ、銅像が造られ、記念公園が建設され、教科書に載せられ、命日の5月8日に慰霊祭が今も行われている。記憶にとどめたい。
★日本統治時代の日本人のことを書きました。わたし的には日本帝国時代の植民地政策を肯定するものでも否定するものでもありません。人と人との出逢いについて語りたかった。それだけです。
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今なら行けぬラッキーな旅
烏山頭ダム・・・八田與一と夫人の銅像について考えた。
我も農耕民族で水については、ヨシに付け悪しきに付け見て来た。
水無ければ、神に頼みて雨乞いをし、水多ければ米(88回をもアレヤコレヤ作業…)した収穫の秋に水害で水浸し、収穫しないうちに発芽……全滅。
水の多い少ないをダムによって調節。
「水を治める者は国を治める」とは、この辺から来ているのでしょう。
(殉職・身投げについては紙面の都合で避ける。)
、
おっしゃれる通り、台湾の農業の発展のために尽力を尽くされた方でしたし、台湾の方々の日本への感謝の思いも十分感じました。
他でも、単に植民地支配していた訳ではない側面をたくさん学べた気がします。
また、泥岩・砂岩帯の多い台湾では多くの流域が濁水だった中、このダムのある中西部の水系では安定した清らかな流れだったこともつけ加えておこうと思います。
また、教えていただきました。ありがとうございます。
「八田與一」というお名前、良く頭に叩き込んでおきます。
外来勢力が入れ替わり立ち代わり支配した時代。日本はインフラを整え、治山治水を行い、近代国家にしました。もちろんそこからの上りを計算してですが。
農業技術者はそういうことを考えない、ただ人のために。ということを実践したようです。地元民も、そういう人柄をジックリ見ていたのでしょう。
それにしても異常なほどの尊敬のされ方です。
それが100年近くたった今でも検証されている。
異常なまでのリスペクトのされ方です。
建設進行中によほどのことがあったのでしょうね。
日本の台湾統治はアメとムチ・・・そのどちらにも属さない人間性だったのでしょうか。
コメントありがとうございました。
日本の台湾統治はアメとムチ・・・そのどちらにも属さない人間性だったのでしょうか。
満州でも、朝鮮でも・・・そういう人がいたはずです。
コメントありがとうございました。