今年のNHKの正月時代劇テレビドラマ「家康、江戸を建てる・・・飲み水を引く」を視て・・・原作を読みました。
門井慶喜著「家康、江戸を建てる」(祥伝社 2016年刊)。5編の短編小説から構成されています。德川家康が1590年に豊臣秀吉から関八州を与えられ江戸に入国、関ヶ原の戦い、大阪城の戦いを経て、戦の時代の終焉、民政で未開の土地から新都市づくり、インフラの整備にかかる時代の話しです。派手な立ち回りはなく、物語りとしての起伏もなく地味な話が続きます。
神田上水・・・三河国赤坂郷300石を知行する德川家直参旗本大久保藤五郎が家康の江戸入国前に駿府にて江戸の飲料水、生活用水の開削を命じられ調査して神田明神下あたりの清流、赤坂溜池の水を引いて上水を開削。詳細は詳らかでない。十数年後、城下町の人口増大に伴い、新たな水源を、武州多摩郡牟礼村の七井の池(現材の井の頭公園)に求め、牟礼村の百姓内田六次郎を中心に上水道を開削。開渠が江戸市中に入ると幕府中枢の阿倍正之(2500石の旗本)の家臣春日与右衛門が土木技術的な面で加わり暗渠化して工事が進行。暗渠の取水口はいまの目白台、椿山荘の崖下、江戸川公園のあたりの関口大洗堰(現在の大滝橋あたり)。竣工年については不明(1630年代?)。
物語りは大久保、内田、春日のプロジェクトチームで進行してゆきます。ヒーローはいません。
神田川・・・江戸時代、武蔵野台地の湧水、雨水を集めて流れていた平川。やがて七井の池、善福寺池、妙正寺池の流れを合流させて整備、目白台から下は江戸川、飯田橋あたりから下流は神田川と呼び。明治時代に神田川に呼称統一。
神田上水のおもかげ・・・遺構は江戸川公園にひっそりと堰の一部が残っているそうです。文京区目白台下の江戸川公園あたりの堰のあったあたりは文京区関口、文京区水道、新宿区水道町という地名で、上水が外堀を越える懸樋があったあたりは水道橋駅という駅名で残っています。工事のための石工の住んでいたあたりに石切橋という橋が。音羽通りと目白通りが合流して神田川を渡る橋が江戸川橋。
上水の拡大のため玉川上水を引くのはもう少しあとになります(1652~1654年)。
近世の江戸・・・上水道完備、整備された大河、運河、排泄物は有料で百姓が買取り。中期には人口100万、世界一の人口、世界一清潔な町だったそうです。
時の為政者はただひたすらに泰平の世を求めました。戦争というものはとにかく膨大な金がかかるのです。地方行政は諸大名に任せますが軍事費などを蓄えぬように様々な策を講じます。
余談・・・1638年竣工された千代田城の天守閣、1657年明暦の大火で焼け落ちたが.四代将軍家綱の補佐役保科正之(会津藩主、二代将軍秀忠の庶子)の意見により、江戸の町の復興を優先、天守閣は平和な時代に無用なものとして再建することはありませんでした。
門井慶喜著「家康、江戸を建てる」(祥伝社 2016年刊)。5編の短編小説から構成されています。德川家康が1590年に豊臣秀吉から関八州を与えられ江戸に入国、関ヶ原の戦い、大阪城の戦いを経て、戦の時代の終焉、民政で未開の土地から新都市づくり、インフラの整備にかかる時代の話しです。派手な立ち回りはなく、物語りとしての起伏もなく地味な話が続きます。
第一話 流れを変える・・・1594年会の川の締切から1654年利根川が銚子に出るまでの関東郡代伊奈家が関わった利根川の東遷の話しです。
第二話 金貨を延べる・・・江戸幕府の小判を鋳造した金座の当主橋本庄三郎の話し。
第三話 飲み水を引く・・・小石川上水、神田上水を引いた大久保藤五郎、内田六次郎。春日与右衛門の話し。
第四話 石垣を積む・・・伊豆堀河の石屋みえすき吾平の話し。
第五話 天守を起こす・・・千代田城天守閣建造に反対した二代将軍徳川秀忠の話し。
第二話 金貨を延べる・・・江戸幕府の小判を鋳造した金座の当主橋本庄三郎の話し。
第三話 飲み水を引く・・・小石川上水、神田上水を引いた大久保藤五郎、内田六次郎。春日与右衛門の話し。
第四話 石垣を積む・・・伊豆堀河の石屋みえすき吾平の話し。
第五話 天守を起こす・・・千代田城天守閣建造に反対した二代将軍徳川秀忠の話し。
ここでは「飲み水を引く」の話しに。
小石川上水・・・地名(文京区小石川)としてのみ残り遺構はない。神田上水・・・現在の神田川沿い。
七井の池・・・現在の井の頭公園、三鷹市牟礼、ここから江戸に開渠、暗渠で水を引きました。
小石川上水・・・地名(文京区小石川)としてのみ残り遺構はない。神田上水・・・現在の神田川沿い。
七井の池・・・現在の井の頭公園、三鷹市牟礼、ここから江戸に開渠、暗渠で水を引きました。
神田上水・・・三河国赤坂郷300石を知行する德川家直参旗本大久保藤五郎が家康の江戸入国前に駿府にて江戸の飲料水、生活用水の開削を命じられ調査して神田明神下あたりの清流、赤坂溜池の水を引いて上水を開削。詳細は詳らかでない。十数年後、城下町の人口増大に伴い、新たな水源を、武州多摩郡牟礼村の七井の池(現材の井の頭公園)に求め、牟礼村の百姓内田六次郎を中心に上水道を開削。開渠が江戸市中に入ると幕府中枢の阿倍正之(2500石の旗本)の家臣春日与右衛門が土木技術的な面で加わり暗渠化して工事が進行。暗渠の取水口はいまの目白台、椿山荘の崖下、江戸川公園のあたりの関口大洗堰(現在の大滝橋あたり)。竣工年については不明(1630年代?)。
物語りは大久保、内田、春日のプロジェクトチームで進行してゆきます。ヒーローはいません。
神田川・・・江戸時代、武蔵野台地の湧水、雨水を集めて流れていた平川。やがて七井の池、善福寺池、妙正寺池の流れを合流させて整備、目白台から下は江戸川、飯田橋あたりから下流は神田川と呼び。明治時代に神田川に呼称統一。
神田上水のおもかげ・・・遺構は江戸川公園にひっそりと堰の一部が残っているそうです。文京区目白台下の江戸川公園あたりの堰のあったあたりは文京区関口、文京区水道、新宿区水道町という地名で、上水が外堀を越える懸樋があったあたりは水道橋駅という駅名で残っています。工事のための石工の住んでいたあたりに石切橋という橋が。音羽通りと目白通りが合流して神田川を渡る橋が江戸川橋。
上水の拡大のため玉川上水を引くのはもう少しあとになります(1652~1654年)。
近世の江戸・・・上水道完備、整備された大河、運河、排泄物は有料で百姓が買取り。中期には人口100万、世界一の人口、世界一清潔な町だったそうです。
時の為政者はただひたすらに泰平の世を求めました。戦争というものはとにかく膨大な金がかかるのです。地方行政は諸大名に任せますが軍事費などを蓄えぬように様々な策を講じます。
余談・・・1638年竣工された千代田城の天守閣、1657年明暦の大火で焼け落ちたが.四代将軍家綱の補佐役保科正之(会津藩主、二代将軍秀忠の庶子)の意見により、江戸の町の復興を優先、天守閣は平和な時代に無用なものとして再建することはありませんでした。
※コメント欄オープン。
地下鉄江戸川橋駅あたり、神楽坂駅あたり、目白駅あたり・・・すべて懐かしい。
神田川、昔汚かったがいまはキレイになっています。芭蕉庵、江戸川公園散歩しました。石切橋のそばに鰻老舗が2軒あって年に1~2回贅沢しました。
270年の戦さの無かった泰平の世の中。歴史です。
江戸川公園あたりの散歩、イイですよ。神田川には大きな錦鯉が泳いでいます。
コメントありがとうございました。
神田上水はむかしのお話。
現代の浄水場。
国府台の菜園に行きましたら、ドデカイ工事をやっていた。
それは市川県民に送水する浄水場でした。
https://www.pref.chiba.lg.jp/suidou/keikaku/daikibo/documents/nogiku2panfunaka.pdf#search=%27%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C%E3%80%81%E7%9F%A2%E5%88%87%E3%82%8A%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E5%A0%B4%E5%B7%A5%E4%BA%8B%27
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確かこのNHKのドラマは、日比野さんのブログで紹介があったような気がしました。
そして、ドラマをおさらいするように、本で細かに書き物を読む。
最近は活字を追うのが疲れショボショボします。流石ヒキノさんです。
水道史をたどれば、
神田上水➡玉川上水➡淀橋浄水場、朝霞浄水場、金町浄水場と…。
その昔集落は水あるところに居を構えた。
神田上水については興味を抱きちょいと調べたことが・・・・。
水道橋、小石川公園、江戸川橋、関口芭蕉庵水番所。
芭蕉も、この工事に加わったとか、水番屋の番をしたとか本で読んだことが。
神田上水の跡を辿る!などのコースも面白そうです。
勉強になりました。
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