比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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秋の東信濃路を歩いているうちに・・・「千曲川のスケッチ」を読みたくなって

2017-12-20 | 本・テレビ、ドラマ・映画・スポーツ
秋の信濃路、上田から塩田平、大屋、海野宿、田中、滋野、小諸の本町通りを歩いた。
ふと島崎藤村の「千曲川のスケッチ」を読みたくなった。
1899年から1905年まで小諸町で明治学院時代の恩師木村熊二の主宰する小諸義塾の教師として過ごした島崎藤村のことが目に浮かんだからです。

「はしがき」でこう書いています。

 「もっと自分を新鮮に、そして簡潔にすることはないか。」
 これは私が都会の空気の中から抜け出して、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中に行って種々なことを学んだ。田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は小使からも生徒の父兄からも学んだ。
 
 

当時の島崎藤村・・・1996年詩集「若菜集」を発表「一葉舟」「夏草」、最後の詩集「落梅集」を発表したのは小諸在住時の1901年、1905年小諸義塾を辞し上京、自費出版で小説「破戒」を発表。小諸時代は詩(韻文)から小説(散文)へ針路を変えようと模索していた時代。
和服の裾をはしょり、和綴じの帖面を下げ、腰に矢立を差し・・・」、小諸から佐久、小県、あるときは飯山まで足を延ばし風景や植物をスケッチ、農夫との会話を書きとめ、あとで解説を補充、帳面の中身をふくらませていった・・・そうです。フィールドワーク、フィールドノートです。
千曲川のスケッチ」はそんな本です。小諸在住の6年後、1911年発表します。小説ではありません。スケッチです。文体は現代文に通じる見事な口語体、明治の文筆家が目指した言文一致です。

小諸市本町通りで「お蕎麦」を食べて、ふと思いついた読書でした。


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