比企の丘

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12月8日・・・70年前・・・真珠湾攻撃・・・捕虜第一号

2011-12-08 | 語り継ぐ責任 あの戦争
今日は何の日・・・太平洋戦争開戦の日
1941年12月8日午前1:30真珠湾攻撃の日です(現地時間では7日午前7:30)。

真珠湾(Pearl Bay)正しくはPearl Harbor(真珠港)。攻撃の経過は研究書が多数ありますから記しません。損害など簡単に記します。(数字はWikipediaなどから)
  日本側の戦力            アメリカ側の戦力と損害
   航空機  350機           戦艦 8隻  他 94隻
   航空母艦  6隻            哨戒機 14機
   戦艦    2隻 その他 
   損害 未帰還機  29機       損害 沈没 3隻 着底 2隻 擱座 1隻
       特殊潜航艇 5艇            被弾 3隻 大破 2隻
   戦死者 64名 捕虜1名       戦死者 2404名
                          生存者協会員 14000名
今年もハワイの真珠湾では70周年記念式典が開かれ攻撃の始まった7日午前7時55分(現地時間)に全員で犠牲者に祈りを捧げました。当時の生存者協会員14000人のうち今回参加した協会員は100人、「真珠湾生存者協会」は今年で解散になる予定とか。

さて、真珠湾攻撃の特殊潜航艇の話です。
字が読めるようになったころ岩田豊雄(獅子文六)の「海軍」という小説を読んだことを覚えています。たぶん兄が買った本でしょう。
小説は海軍に憧れる主人公が視力低下のため不合格になり画家の道に進み、海軍の嘱託画家となり真珠湾攻撃で特殊潜航艇の艦橋から敵状を見る若き将校をイメージで描く。その後、真珠湾攻撃で鹿児島二中時代からの無二の親友が戦死したことを知るというあらすじであったことを思い出しました。

特殊潜航艇「甲標的」(写真はWikipediaより)
全長24m、全幅1.8m、全高3m。
2ボルトの電池192個で動く。 

特殊潜航艇5艇が損害とされています。出撃した潜航艇(搭乗員2名)は5艇、すべてが沈没、10名の戦死者が出たことになるのですが9名が戦死・・・各新聞は軍神と書き立てます。軍神は10名のはずですが計算が合いません。捕虜1名とあるのは戦後になってからの発表です。

太平洋戦争捕虜第1号「酒巻和男」・・・特殊潜航艇で真珠湾に入るも航行不能になり時限爆弾をセットして脱出、漂流中に失神状態になり海岸に漂着、捕虜に。
捕虜になった酒巻はアメリカ軍にハーグ協定(戦時国際法捕虜の扱い・・・虐待の禁止など)の説明を受けたそうです(おそらく日本兵はこの国際法の存在すら知らなかったでしょう)。
生きて虜囚の辱めを受けず」という軍人勅諭の教育を受けていた酒巻は何回か自決の試みたそうですが翻意して、その後、捕虜になった日本兵の自決を説得して止めたそうです。1946年アメリカ本土の収容所から帰国、トヨタ自動車入社、1969年現地法人トヨタブラジル社長、1991年没81歳。
1818年徳島県生まれ、旧制脇町中学校から海軍兵学校に、捕虜となったとき23歳、英会話もこなせたようで収容所内でリーダーとして通訳もつとめ、利敵行為の労働には従わない毅然とした行動はアメリカ軍も認め賞賛したそうです。

《蛇足》この稿を起こしてから気がついたのですが、明日12月10日NHKテレビ午後9:00~10:30放映の土曜スペシャルドラマ「真珠湾からの帰還」は酒巻和男を中心にしたものです。
酒巻和男は1949年新潮社刊で「捕虜第一号」を著しています。アマゾンで調べましたが廃刊になっていて古書でも見つかりませんでした。


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