比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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多摩川・・・玉川上水・・・玉川兄弟・・・玉川陣屋

2010-06-09 | 古城・城址・陣屋・館跡
多摩川・・・羽村の堰のあたり、河原を歩いて、羽村堰下橋(歩道橋)を渡って羽村堰下公園に。

玉川上水・・・第三水門から分水、山口貯水池、村山貯水池に導水され東京都の水瓶になります。


玉川兄弟のブロンズ像・・・取水堰の下、多摩川と玉川上水に挟まれた羽村堰下公園。
玉川上水の工事を町人請けした玉川兄弟のブロンズ像があります。

玉川上水・・・1653年総奉行松平信綱、水道奉行伊奈忠治の下に、7000両(5000両とか6000両とか・・・はっきりしない)の総予算で庄右衛門、清右衛門なる兄弟に請け負わせて開削を始めたといいます。兄弟は上方の出とか多摩地区の百姓とかいわれますが出自は不明。土木設計技術を持っていたのは間違いないでしょう。競争入札であったか随意契約であったかは不明。工事は途中で予算を使い果たし、そうなると請け負ったものの責任ですから兄弟は家屋・田畑を売り払ったとかいいますがこれも不明。玉川上水に関する一切の文書は松平信綱が焼却したという説もあり謎が残ります。兄弟は上水完成後、200石を賜り苗字帯刀を許され、世襲で上水の管理を任されますが1739年その職を剥奪されます(世襲者が不適格、不始末、讒訴などがあったのでしょうね)。

羽村堰下公園から人道橋を渡って奥多摩街道、第一水門の上に東京都水道局羽村取水事務所(かつての羽村堰陣屋の敷地)があり、その横に玉川兄弟が勧進して建てたという玉川水神社、祭神は水分大神、彌都波能賣ですが水源の水干を奥宮にして奥多摩の森林にたいし畏敬の念を持ったものと考えます。その横に羽村陣屋の門だけあります。


陣屋とは城を持たない大名の居館をいいますが、高山陣屋など出張所や郡奉行所みたいな事務所も陣屋といいます。
羽村陣屋は水門、水路、堰堤などのメンテナンス、水番人を置いて水量の管理をしました。

玉川上水は新宿御苑の東の端、四谷大木戸まで43km、四谷大木戸から土中に埋められた木樋の中に入って江戸市中に配水、桶で作られた井戸のようなもので人々に使われます。もちろん浄化・殺菌などされていません。それでもそれが原因の疫病の蔓延があったという話は聞きませんから人々の水を汚染させないという意識はたいへんなものだったのでしょう。浄水設備ができパイプ配管されたのは明治時代に入ってからです。
さて上水ばかりいいましたが下水はどうしたって?・・・江戸は偉大なリサイクル都市、オワイ車やオワイ舟に乗って郊外へと運ばれ土に返り野菜を育てました。世界の都市ではみんな垂れ流しだったのです。19世紀にようやくパリに下水道が設置されます。

多摩川・・・暴れ多摩川なんていわれますが日本一おとなしい川だそうです。記憶にあるのは1974年東京都狛江市付近で堤防が決壊して10数戸が流失したという事例だけです。山梨・埼玉県の県境の笠取山の水干を水源として一之瀬川、丹波川、そして小河内ダムから多摩川、懐の深い森林地帯が水をシッカリと涵養しているのがおとなしい川のゆえんです。

それにしてもこの偉大な歴史的構築物、羽村駅から歩いてすぐで電車利用の人にはいいのですが車利用の人にはおそろしく不案内です。結局、郷土博物館から歩き回りました。運動になっていいのですが、足の悪い人には優しくないですね。

河原に戻って水鳥でも見ますか




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