比企の丘

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満蒙開拓勤労奉仕隊・・・残留婦人が記した・・・「渡満はなんだったのか」

2006-08-28 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか

今日は、満蒙開拓団の勤労奉仕で信州伊那の山奥の遠山郷から敗戦直前の満州に渡りそのまま取り残されてしまったかたのお話です。

米山経子渡満はなんだったのか」(南信州新聞社)、B6判、62頁の小冊子です。

このお話は昭和20年3月、年齢は17~18才?の米山経子さんが長野県下伊那郡八重河内村梅平から満蒙開拓団の勤労奉仕にソ連国境に近い「信濃農場」に出発するところから始まります。
期間は7ヶ月、報酬は大豆4斗(信ジラレナイ!)。遠山郷(和田、八重河内)から18名で結団、3月18日出発します。3月10日東京は大空襲により壊滅的な大打撃を受けていますが、その後です。
なにごとも無ければ11月ごろには帰郷できたわけですが・・・・・・。

敗戦、ソ連軍の進攻、逃避行、収容所入り(大虐殺にあわなかったことは幸い)、収容所からの脱出、自活、中国人との結婚、再婚、文化大革命での受難、夫の死、30年ぶりの帰国、その後のこと、たんたんと綴られています。

そこには戦争に対する怨みつらみ、悲しみは強くは語られていませんが・・・・・・。むしろ生き抜いてきたバイタリティーを感じます。一緒に渡満し地獄を見た18名でご存命の方は米山さんだけのです。

★以下は米山経子さんが満蒙開拓団の勤労奉仕に参加することになった・・・記述です。

昭和二十年三月のある日、中折れ帽子をかぶった遠山村長が、絣の着物に袴、白足袋に桐の下駄を履き、杖をつきながら家に訪ねてきて、母に「娘たちを満州に行く勤労奉仕隊に行かせて欲しい」と言った。父が仕事で留守だったので母は「夕方帰ってきたら相談し返事をします」と答えて帰ってもらった。帰りしな村長は「これは国の命令だから理由なくして背くと罰せられる。行かせることに嫌といえば牢屋に入れるから」と言った。・・・・・

この話はこれで終わりです。

満蒙開拓団のことは明日もまた。


長野県下伊那郡八重河内村(南信濃村現飯田市) 南下する天竜川の谷間より東側の赤石山脈の山麓地帯。中央構造線上にあり、茅野から静岡県水窪町(現浜松市)へ秋葉街道がつながる県境の村。古くから「遠山郷」として知られる。

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