彩風人・・・2016年2月1日、雪の福島・・・会津への旅。会津若松から阿賀川(別称大川、阿賀野川水系)に沿って国道121号線を南へ
かつての会津西街道大内宿を尋ねてから帰路につきます。
《薀蓄》
大内宿・・・福島県南会津郡下郷町大内、国指定重要伝統的建築物保存地区、全長450m。標高650m、寄棟茅葺屋根の棟側が道路を向いて整然と並び家と家との間は屋根からの雪下ろし処理のため大きく開いている。
宿場の真ん中を通る道は旧会津西街道((南山通り、日光街道、下野街道)、川三代将軍家光の異母弟の保科正之が会津藩主になった1643年整備。会津藩、米沢藩、庄内藩、新発田藩、村上藩が参勤交代の道として使い宿は大いに栄えた。1680年に幕府の方針により参勤交代の道は白河街道に変わり宿の需要は激減、半農半宿に。主に馬輸送による流通業者(中附駑者)の馬宿として使われた。1683年日光大地震により堰止湖(五十里湖)が出現、西街道は水没、那須山塊を越えて矢板、氏家に至る会津中街道が流通の中心に。
1868年明治の夜明け、戊辰戦争の戦場になったが戦火を免れる。1878年イギリス人の旅行家イザべラ・バードが大内宿に宿泊。1882年西街道は阿賀川沿いに付替えられて大内宿は旧道に。1899年磐越西線、さらに1927年会津線が開通すると大内宿の宿駅としての機能は完全に失われ、半農半宿の町は純農村に。
1970年代、外部の研究者により古民家、地方史、民俗学の調査がされ文化庁に保存運動がされるようになるが、住民は生活の近代化をはかるようになり,道路は舗装され、屋根はトタン屋根に、家屋の増改築などがされていきます。
1981年国指定重要伝統的建築物保存地区に選定。「大内宿保存会」が発足、住民による保存活動がはじまります。
1987年「湯野上温泉駅」改築にともない茅葺屋根駅舎に。
1989年宿の無電柱化、通りのアスファルト撤去、土の道に。
1998年「大内宿結いの会」が発足。住民による茅葺屋根の復元、葺き替え技術の伝承がはじまる。
観光客数、1985人2万人、会津鉄道と東武線の直通で1991年50万人突破、1997年磐越自動車道の開通でうなぎ上りに上昇、2007年100万人突破。
展望台に登って大内宿を眺めれば江戸時代の廻米街道の南山通りの盛衰が脳裏に浮かんで来るが、江戸時代の中期に起こった南山御蔵入領騒動にも思いを巡らせた。ここ南会津地方は江戸時代天領5万5千石、1643年会津23万石余領主になった保科正之の預かり地、保科家は実質28万石余に、そのご1713年幕府支配に、1720年年貢の取立てに苦しんだ農民が田島代官所に訴え、さらに江戸幕府に直訴、1722年農民6名が斬首、牢死9名。代官、郷頭の罷免で幕が引かれた。
※茅葺屋根の葺き替えは30~40年に1回、実質費用500万円以上かかるといわれます(資材は入会山から刈取り、乾燥保管、運搬、葺き替え、ほとんどが人件費)。集落内の共同作業(無償労働)で行われます。こうした共同作業は日本各地で「結い」とか「もやい」とか呼ばれ、沖縄では「ゆいまーる」、朝鮮半島から東南アジアの国々でも同じような共同作業があるようです。
「結い」は社会学では地域共同体とかコミュニティー(英語)とかゲマインシャフト(独語)などといいます。
かつての会津西街道大内宿を尋ねてから帰路につきます。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です。)
(比企の丘からブログのギャラリー開放です。)
国道121号線から湯野上温泉駅あたりで県道329号線に、さらに県道131号線を北に向い大内集落。
旧道に入ると忽然と現れる近世江戸時代の風景・・・会津西街道「大内宿」です。
町の北のはずれの小高い山の中腹、人道ですが展望周回路。
両側の生活水路が懐かしい田舎の感じ・・・元は真ん中にあった一本の水路を1886年道路拡張のため二本に。
旧道に入ると忽然と現れる近世江戸時代の風景・・・会津西街道「大内宿」です。
町の北のはずれの小高い山の中腹、人道ですが展望周回路。
両側の生活水路が懐かしい田舎の感じ・・・元は真ん中にあった一本の水路を1886年道路拡張のため二本に。
※撮影日は2月1日。カメラはFUJIFIRM X-T10。
《薀蓄》
大内宿・・・福島県南会津郡下郷町大内、国指定重要伝統的建築物保存地区、全長450m。標高650m、寄棟茅葺屋根の棟側が道路を向いて整然と並び家と家との間は屋根からの雪下ろし処理のため大きく開いている。
宿場の真ん中を通る道は旧会津西街道((南山通り、日光街道、下野街道)、川三代将軍家光の異母弟の保科正之が会津藩主になった1643年整備。会津藩、米沢藩、庄内藩、新発田藩、村上藩が参勤交代の道として使い宿は大いに栄えた。1680年に幕府の方針により参勤交代の道は白河街道に変わり宿の需要は激減、半農半宿に。主に馬輸送による流通業者(中附駑者)の馬宿として使われた。1683年日光大地震により堰止湖(五十里湖)が出現、西街道は水没、那須山塊を越えて矢板、氏家に至る会津中街道が流通の中心に。
1868年明治の夜明け、戊辰戦争の戦場になったが戦火を免れる。1878年イギリス人の旅行家イザべラ・バードが大内宿に宿泊。1882年西街道は阿賀川沿いに付替えられて大内宿は旧道に。1899年磐越西線、さらに1927年会津線が開通すると大内宿の宿駅としての機能は完全に失われ、半農半宿の町は純農村に。
1970年代、外部の研究者により古民家、地方史、民俗学の調査がされ文化庁に保存運動がされるようになるが、住民は生活の近代化をはかるようになり,道路は舗装され、屋根はトタン屋根に、家屋の増改築などがされていきます。
1981年国指定重要伝統的建築物保存地区に選定。「大内宿保存会」が発足、住民による保存活動がはじまります。
1987年「湯野上温泉駅」改築にともない茅葺屋根駅舎に。
1989年宿の無電柱化、通りのアスファルト撤去、土の道に。
1998年「大内宿結いの会」が発足。住民による茅葺屋根の復元、葺き替え技術の伝承がはじまる。
観光客数、1985人2万人、会津鉄道と東武線の直通で1991年50万人突破、1997年磐越自動車道の開通でうなぎ上りに上昇、2007年100万人突破。
展望台に登って大内宿を眺めれば江戸時代の廻米街道の南山通りの盛衰が脳裏に浮かんで来るが、江戸時代の中期に起こった南山御蔵入領騒動にも思いを巡らせた。ここ南会津地方は江戸時代天領5万5千石、1643年会津23万石余領主になった保科正之の預かり地、保科家は実質28万石余に、そのご1713年幕府支配に、1720年年貢の取立てに苦しんだ農民が田島代官所に訴え、さらに江戸幕府に直訴、1722年農民6名が斬首、牢死9名。代官、郷頭の罷免で幕が引かれた。
※茅葺屋根の葺き替えは30~40年に1回、実質費用500万円以上かかるといわれます(資材は入会山から刈取り、乾燥保管、運搬、葺き替え、ほとんどが人件費)。集落内の共同作業(無償労働)で行われます。こうした共同作業は日本各地で「結い」とか「もやい」とか呼ばれ、沖縄では「ゆいまーる」、朝鮮半島から東南アジアの国々でも同じような共同作業があるようです。
「結い」は社会学では地域共同体とかコミュニティー(英語)とかゲマインシャフト(独語)などといいます。
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「大内宿」にiinaは、真夏に訪ねましたが、厳冬の景色にはおよびません。避暑や避寒の時期に観光するのでなく、
その地の一番季節感がでる冬こそ最適な風情でした。^^
また、雪をかぶったかやぶき屋根の湯野上温泉駅が好いです。
きょうは、話題が広がってブログの醍醐味を味わえました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/29d744336e3628f354fa4912d4edd60e
国鉄の分割はやむを得なかったでしょうが、ドル箱を抱えた地区は好いですが、過疎地の経営は過酷です。
日本全域で危険分散する経営する手法を、残せなかったものでしょうか。
きょうはコメントを盛り込みすぎました。「過ぎたるは及ばざるが如し」とも申します。