比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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武州高麗・・・渡来人の郷・・・高麗神社

2009-03-01 | 道をゆく 埼玉イイなっ
武州日高市・・・高麗神社・・・716年この地に入った高句麗人の一党1799人のことからはじめなければなりません。古代、朝鮮三国の覇権争いは何回かの浮き沈みがあり、朝鮮半島に進出していた日本と百済王国の連合軍が663年白村江の戦で唐、新羅の連合軍に大敗を喫し、続いて668年高句麗王国も滅亡。この高句麗の亡命者たちのうち「甲斐、駿河、上総、下総、常総、下野に入っていたものを入植させ高麗郡高麗郷を創建した」と続日本書紀に記されているそうです。
このニュータウン建設のリーダーが高句麗王朝の貴族高麗王若光。技術先進国です。建築、土木、農業、鋳造、鍛造、馬の飼育、牧畜、あらゆる方面の技術者がいたことでしょう。不毛の地が実り豊かな田畑に開発されていきます。

高麗神社・・・ここにお参りするのははじめてです。いつも通過する道のそばです。

高麗神社の系図には「若光が没すると郡民は御殿の後山に霊廟を建て神霊を祀り高麗明神と称した」と記しているそうです。

高句麗の人たち「渡来人」と呼ぶのが定説のようです(帰化人というのは意味がちがいます)。この人たちはいま完全に日本に同化してると思いますがかつては高度な先進技術を持つ外人だったのです。山梨県巨摩郡、東京狛江市、大阪河内の巨麻郷、京都山科の狛郷に地名の名残をとどめています。

李王朝から大韓帝国になった年1897年に生まれた李王朝最後の皇太子、のちの李王垠殿下(1897~1970年)、李王妃方子女王(1901~1989年)のお手植えの木が仲良く寄り添うようにして二本並んで大木になっています。歴史に翻弄された二人の一生はわたしには推し量ることはできません。

 
 
《蛇足》李方子(マサコ)皇族梨本宮家の王女、昭和天皇との婚約も取りざたされたが李王と結婚することになった。昭和天皇と結婚した久邇宮家王女良子(ナガコ)・・・香淳皇后は従姉妹にあたる。

高麗神社本殿(県指定文化財)・・・学問の神様とかで受験シーズンには願掛けの参拝者で賑わいます。
もちろん受験は神頼みだけではダメです。

現存する高麗家住宅(国指定重要文化財)です。間口7間半、奥行き5間、総面積37.5坪(136.2㎡)、3LDK、21畳のリビング(表座敷)、通し土間が広いので部屋数はありません。。伝承によれば慶長年間(1600年前後)の構築といわれるが構造手法から1600年代中期と推定。1976~77年解体・修理・復元。


樹齢推定400年の枝垂れ桜(ヒガンザクラ系)が古民家にピッタリ。

さて現代は・・・山を切り崩し新しい高麗の郷が創建されています(どこのニュータウンも同じですが)。現代の渡来人たちがこの美しい高麗の里をどう切り開いていくか、それは後の世の人しか眺めることはできません。

06.09.13のブログ「ヒガンバナ・・巾着田・・高麗の里」


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