信州上田の・・・六文銭の写真帳
上信国境碓氷峠、国道18号線(旧道)をいまは廃線になった旧信越本線の遺構を見ながら下って行きます。峠を下りきったところに旧中山道69次17番坂本宿の街並みが。
下ノ木戸から街並みを見ています。まっすぐ伸びた緩い上り坂の広い道幅の宿場。遠くに見えるのは旧中山道の通る刎石山(909m)です。むかしはあの山から尾根伝いに碓氷峠(1188m)に上っていったのです。
広い道幅です。1625年徳川家光の時代に宿場町として道幅14.85m(中央に幅1.3mの用水路があった)、延長713mのニュータウンが開発されました。家数370軒、本陣2、脇本陣4、旅篭40軒、人口700人余、標高480m、軽井沢宿まで標高差700m、18km、西に碓氷峠、東に碓氷関所、坂本宿泊まりが必然となり、しばしば渋滞し、他の宿場より収容能力を多くする必要がありました。本陣2、脇本陣4は大名家の同時宿泊に備えてです。参勤に通過するする大名31家、例幣使道中、茶壺道中などで大いに賑わったといいます。
下ノ木戸跡(江戸に近いほうの木戸、京に近いほうに上ノ木戸があります)。
開門は明け六つ。閉門は暮れ六つ。人の顔を判別できる明るさで測ったそうです。
佐藤本陣跡・・・屋根の上に養蚕用の気抜きの小屋根が見えますから明治に入っての改築かと思います。建造年不明。
脇本陣みよやが跡・・・門構えのみのようですが?
脇本陣永井屋跡・・・門構えのみ?
元旅籠かぎや跡・・・建造年不明。
上の木戸あたり建つ芭蕉句碑
ひとつ脱いで うしろにおいて 衣かへ・・・
★寛政2年(1790年)に坂本の俳人グループが建立、芭蕉がこの地を詠んだものではない。刎石山の刎石四軒茶屋あたりあったものを明治時代中山道が廃止になったのを機に現在地に移転。開門は明け六つ。閉門は暮れ六つ。人の顔を判別できる明るさで測ったそうです。
佐藤本陣跡・・・屋根の上に養蚕用の気抜きの小屋根が見えますから明治に入っての改築かと思います。建造年不明。
脇本陣みよやが跡・・・門構えのみのようですが?
脇本陣永井屋跡・・・門構えのみ?
元旅籠かぎや跡・・・建造年不明。
上の木戸あたり建つ芭蕉句碑
ひとつ脱いで うしろにおいて 衣かへ・・・
※撮影日は3月13日。
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