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国道152号線・・・茅野市から静岡県の水窪、浜松に至る伊那の谷と赤石山系に挟まった谷間の道です。中央構造線といわれる地層のズレが諏訪地方から和歌山、四国、九州中央部まで続いている地学の標本みたいな地帯です。
早朝に上田の塩田平から和田峠を越えて諏訪、茅野市から杖突峠(1247m)に来ました。茅野市側には茶店があり伊那市側は草原になっています。
茅野市の上り口が海抜約800m、杖突峠が1247m、その間は直線距離約3km、高度差約400m、たいへんな傾斜です。これから高遠へは緩やかな傾斜を下りてゆきます。
峠から少し下りると片倉という地籍があります。集落の手前に砂防ダムが見えます。長い堰堤が1基、その他に石積みの砂留が2基見えます。ウエブで調べてみますと平成になってからの工事のようです。堰堤7基、石床、砂防林などの工事が施されています。このへんで海抜1000mです。
脆い中央構造線地帯の山に住む人々の環境は厳しいようです。
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高遠城址です。桜の全国的名所です。葉が繁ってウッソウとしています。
桜の時期に訪れたことはありません。喧騒がキライなのです。でも見事でしょうね。
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保科家の二代目保科正之は二代将軍徳川秀忠の妾腹の子(三代将軍家光は腹違いの兄です)。秀忠はナントカ正室お江の方の目をごまかして高遠の殿様に正之をはめ込み、そのご正之は閨閥人事で山形、会津の殿様になり、保科から松平に姓を代えて明治を迎えます。正之はたいへん頭のいい人で四代将軍のスタッフとして幕政に腕を振るいました。
内藤家は譜代大名、内藤新宿の名で知られ新宿御苑は高遠藩の江戸中屋敷でした。
城址の空堀の中にナツズイセン(リコリス)が咲いていました。夏、日陰の場所にどこにでも見られる花です。遠目にはピンクのヒガンバナに見えます。近くで見るとユリです。
北門のすぐ傍の藩校「進徳館」に寄りました。ここは1860年開校、明治維新の8年前です。
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「わらじ騒動」、高遠藩の百姓一揆。1822年から1824年のことです。高遠藩には大阪加番という役がありました。大阪の治安維持のための長期滞在で経費は莫大です。オマケに元禄検地のとき実高39000石に査定されて6000石召し上げになります。お侍さんも減俸です。年貢の率も高くなります。
民謡伊那節に「木曾へ木曾へと、付け出す米は、伊那や高遠の余り米」とあります。
実は「余り米」ではなく「涙米」だったらしいです。33000石の土地で余るほどの米はとれません。
文政の時代、今の財務大臣みたいな人が改革案を出しました。
成年男子一人当たり1日わらじ2足、女子は1戸当たり1年綿布8反の上納義務を与えます。人頭税ですね。世に「わらじ騒動」、そのときの企画立案者の名から「興津騒動」とも言われます。高遠藩38000人、そのうちの1/4の10000人の百姓が立ち上がります。筵旗を立ててのストライキです。
大阪から帰藩した殿様が事情を知り、百姓勝訴、改革責任者は国外追放となります。水戸黄門様のような解決方法ですね。百姓側に処刑者が出たかは定かでありません。
いつの世でも「庶民は税金を生む機械」と考える為政者がいます。百姓もシタタカです。
高遠から分杭峠を越えて152号線を大鹿村に向かいます。
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