いまから71年前の8月は、米軍爆撃機により6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日にソ連が旧満州国(現中国東北部)への進攻を開始、15日に日本が連合国側からのポツダム宣言を受諾して無条件降伏・・・日本が戦争に敗れた日。
もう71年も前の8月、日本に原子爆弾が落とされたとか、日本が戦争に敗れたとか、旧満州国とか、中国、東南アジアにいた日本人、満州国にいた日本人の引揚げ、シベリア抑留、中国残留孤児とか、遠いむかしの歴史の話しになりました。知らない人のほうが多いでしょうね。
日本人としてぜひ語り継いでもらいたいあの戦争の話しをカテゴリー「語り継ぐ責任 あの戦争」として取り上げてきました。
今回は、旧満州国でソ連参戦から、連合国への無条件降伏、その直後から日本に帰国までの一人の婦人の手記を紹介します。
その婦人の名は藤原てい・・そのとき27歳。満州国新京市(現長春市)の観象台仁勤めていた技手の藤原寛人(後の作家新田次郎)の奥さん。
8月9日のソ連参戦、その日の夜10時半に日本への引揚げ準備開始、6歳の正弘、3歳の正彦、生後1ヶ月の咲子を連れて10日1時半新京駅集合、10時新京駅出発、12日北朝鮮宣川駅到着、収容所とした農学校に入所。15日天皇陛下の敗戦の詔勅を聞く。17日米ソの同意により朝鮮半島に38度線が引かれ北はソ連仁南はアメリカの支配下に。これにより交通手段が遮断され宣川の日本人は停滞を余儀なくされます。8月18日夫寛人が宣川に、10月28日寛人はソ連軍の捕虜としてふたたび満州に(シベリア行きは免れ中国八路軍の雑役として延吉市で過ごします)。日本人の集団はここでわずかな所持金で約1年間の収容生活を送ります。子どもたちは幼児です。0歳児の咲子さん。噛み砕いた大豆を口移しで与えます。長男の正弘がジフテリアにかかったとき朝鮮人の医師の血清処置で救われます。夫の残したロンジンの時計、売れば300円くらいのものを医師は1000円で買ってくれ医療費にしてくれます。子どもたちを日本に連れて帰るために行商、物乞いもします。それが夫との約束だったからです。目立たないところに食物を捨ててくれる朝鮮人の婦人もいました。
宣川で冬を過ごし春を過ごしまた夏がやって来ます。汽車で平壌経由で38度線近い新幕まで行き、そこから38度線を徒歩で越えて90㎞先の南朝鮮の開城を目指そうという話しが進められます。
1946年8月1日宣川駅発、平壌に。8月3日新幕駅に。
そこから徒歩の旅がはじまります。7歳の正弘。4歳の正彦の手を引っ張って、1歳児の咲子はリュックの中に。山を越え丘を越え川を渡り、咲子には噛み砕いた大豆を口移しに。8月11日開城の避難所に収容され、8月26日釜山港発、9月12日博多港上陸。
諏訪の実家にたどりつき、夫寛人も帰国、中央気象台に復職。ていさんは全身衰弱で這いずるまわるような毎日。夫の給料はていさんの治療のためのペニシリン購入費に。死を覚悟して夫や子どもたちへの遺書として満州からの逃避行の経験をノートに書き綴ります。
ようやく体力が回復して普通の生活が見込めるようになったとき遺書として書き綴った2冊のノートを夫に見せます。
「俺に預けてくれ」といった藤原寛人の手配によってこの遺書が本になったのは1949年。
藤原てい「流れる星は生きている」(日比谷出版 1949年刊)
20世紀の日本人から21世紀の日本人への遺言です。
※タイトルは北朝鮮の宣川で1年間を過ごしたとき何かと親切にしてくれた北朝鮮の保安隊の金さんというかたに教えてもらった歌の一節です。南方で日本部隊にいたとき覚えたといいます。この歌を作詞した日本兵も作曲した日本兵も終戦間際に戦死したそうです。
わたしの胸に生きている
あなたの行った北の空
ごらんなさいね 今晩も
泣いて送ったあの空に
流れる星は生きている
戦争を肯定するのでもなく、否定するのでもなく、旧満州国、旧朝鮮半島という日本の植民地政策を批判するのでもなく、ただ戦争で起った普通の人の苛酷な経験をそのまま書いた手記(小説形式でフィクションも混じっている?)です。
「流れる星は生きている」は大ベストセラーになりました。ノンキャリアの気象台の技手の藤原寛人を国民的小説家新田次郎に導いたのもこの書がきっかけでした。
※藤原てい(1918年~)・・・長野県諏訪郡湖東村笹原(現茅野市、標高1100m)生まれ。典型的な信州諏訪人。誠実で、気性激しく勝気、ストイック。幼子3人を抱えて無事帰国したのは執念、根性、母である本能。
※併せて読んでほしい本を紹介します。
新田次郎「望郷」(文藝春秋 1965年刊)
藤原てい「旅路 自伝小説」(読売新聞社 1981年刊)
藤原咲子「父への恋文」(山と渓谷社 2001年刊)
もう71年も前の8月、日本に原子爆弾が落とされたとか、日本が戦争に敗れたとか、旧満州国とか、中国、東南アジアにいた日本人、満州国にいた日本人の引揚げ、シベリア抑留、中国残留孤児とか、遠いむかしの歴史の話しになりました。知らない人のほうが多いでしょうね。
日本人としてぜひ語り継いでもらいたいあの戦争の話しをカテゴリー「語り継ぐ責任 あの戦争」として取り上げてきました。
今回は、旧満州国でソ連参戦から、連合国への無条件降伏、その直後から日本に帰国までの一人の婦人の手記を紹介します。
その婦人の名は藤原てい・・そのとき27歳。満州国新京市(現長春市)の観象台仁勤めていた技手の藤原寛人(後の作家新田次郎)の奥さん。
8月9日のソ連参戦、その日の夜10時半に日本への引揚げ準備開始、6歳の正弘、3歳の正彦、生後1ヶ月の咲子を連れて10日1時半新京駅集合、10時新京駅出発、12日北朝鮮宣川駅到着、収容所とした農学校に入所。15日天皇陛下の敗戦の詔勅を聞く。17日米ソの同意により朝鮮半島に38度線が引かれ北はソ連仁南はアメリカの支配下に。これにより交通手段が遮断され宣川の日本人は停滞を余儀なくされます。8月18日夫寛人が宣川に、10月28日寛人はソ連軍の捕虜としてふたたび満州に(シベリア行きは免れ中国八路軍の雑役として延吉市で過ごします)。日本人の集団はここでわずかな所持金で約1年間の収容生活を送ります。子どもたちは幼児です。0歳児の咲子さん。噛み砕いた大豆を口移しで与えます。長男の正弘がジフテリアにかかったとき朝鮮人の医師の血清処置で救われます。夫の残したロンジンの時計、売れば300円くらいのものを医師は1000円で買ってくれ医療費にしてくれます。子どもたちを日本に連れて帰るために行商、物乞いもします。それが夫との約束だったからです。目立たないところに食物を捨ててくれる朝鮮人の婦人もいました。
宣川で冬を過ごし春を過ごしまた夏がやって来ます。汽車で平壌経由で38度線近い新幕まで行き、そこから38度線を徒歩で越えて90㎞先の南朝鮮の開城を目指そうという話しが進められます。
1946年8月1日宣川駅発、平壌に。8月3日新幕駅に。
そこから徒歩の旅がはじまります。7歳の正弘。4歳の正彦の手を引っ張って、1歳児の咲子はリュックの中に。山を越え丘を越え川を渡り、咲子には噛み砕いた大豆を口移しに。8月11日開城の避難所に収容され、8月26日釜山港発、9月12日博多港上陸。
諏訪の実家にたどりつき、夫寛人も帰国、中央気象台に復職。ていさんは全身衰弱で這いずるまわるような毎日。夫の給料はていさんの治療のためのペニシリン購入費に。死を覚悟して夫や子どもたちへの遺書として満州からの逃避行の経験をノートに書き綴ります。
ようやく体力が回復して普通の生活が見込めるようになったとき遺書として書き綴った2冊のノートを夫に見せます。
「俺に預けてくれ」といった藤原寛人の手配によってこの遺書が本になったのは1949年。
藤原てい「流れる星は生きている」(日比谷出版 1949年刊)
20世紀の日本人から21世紀の日本人への遺言です。
※タイトルは北朝鮮の宣川で1年間を過ごしたとき何かと親切にしてくれた北朝鮮の保安隊の金さんというかたに教えてもらった歌の一節です。南方で日本部隊にいたとき覚えたといいます。この歌を作詞した日本兵も作曲した日本兵も終戦間際に戦死したそうです。
わたしの胸に生きている
あなたの行った北の空
ごらんなさいね 今晩も
泣いて送ったあの空に
流れる星は生きている
戦争を肯定するのでもなく、否定するのでもなく、旧満州国、旧朝鮮半島という日本の植民地政策を批判するのでもなく、ただ戦争で起った普通の人の苛酷な経験をそのまま書いた手記(小説形式でフィクションも混じっている?)です。
「流れる星は生きている」は大ベストセラーになりました。ノンキャリアの気象台の技手の藤原寛人を国民的小説家新田次郎に導いたのもこの書がきっかけでした。
※藤原てい(1918年~)・・・長野県諏訪郡湖東村笹原(現茅野市、標高1100m)生まれ。典型的な信州諏訪人。誠実で、気性激しく勝気、ストイック。幼子3人を抱えて無事帰国したのは執念、根性、母である本能。
※併せて読んでほしい本を紹介します。
新田次郎「望郷」(文藝春秋 1965年刊)
藤原てい「旅路 自伝小説」(読売新聞社 1981年刊)
藤原咲子「父への恋文」(山と渓谷社 2001年刊)
※新田次郎に関するブログ→クリック
※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。
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こうして語り継がなければ、全部忘れ去られていくこと、今だからこそ、語り継いでいかなければ!と思います。
ツイートさせていただきました。
ヒキノさんには感心させられます。
われは、モウ降参です。根気が続きません。途中で・・・・ダウン。
新田次郎さんが長野県とは全く知りませんでした。「八甲田山死の彷徨」をよんだとき、東北の人だとばかり。
藤原ていは凄い。過酷な地を這うような中を幼子3人を抱えて無事帰国したのは執念、根性。
長野県人は優秀無人種なのでしょう。
長野の人は、同窓会、県人会、等で士気を鼓舞するために県歌「信濃の国」を皆さんと一緒に歌うと言うことが、”NHKラジオ深夜便”で聞きました。
県歌によって一層、気持ち、協調、団結力を高めて、次へのステップにするのでしょう。
満蒙の国から決死の逃避行・・・・新田次郎の奥さん藤原ていさんの紹介、ヒキノさんの綴った貴重な文章有難う。
涙しました。読んでみます。
ご紹介有難うございます。
満州引揚者。いろんな形があります。藤原さんのように公務員でソ連参戦とともに引き揚げ開始した人、もっと早く引揚げた人。新京で停滞した人。奥地にいて何の情報もなく置き去りにされた人。
藤原ていさんは当時27歳、3児の母、しかも生後1か月の女児を抱えて。
「旅路」という本で、全身衰弱でペニシリンの日々、新田次郎は家事と育児もしながらお勤めに、遺書のつもりで書いたメモと初めて知りました。満州から北朝鮮への逃避行が結果として良かったか。朝鮮でも18歳から45歳までの男子はソ連軍が連行していきます。残ったのは老人と女子供。収容中にいろんなことがおきます。死んでゆく人を見ています。親切にしてくれた朝鮮の人のことも書いています。
思いましたが、藤原ていさんは信州諏訪の人。酷寒の地で育ったせいか芯が強いですね。山梨の人と似ています。
1918年生まれ、98歳、今は施設で静かに過ごされているようです。
この欄の上の欄にこのブログの人気記事10が載っています。10のうち5つが昔書いたこれだけは読んでもらいたいという記事です。
これからもいろんな物語を書いていきたい
竹橋の元気象庁の技官、諏訪中卒、気象庁入り、通信講習所に学ぶ。努力の人です。
奥さんお本が売れて気象庁職場で陰口叩かれ、「強力伝」で直木賞を取って居づらくなったようです。
信州でも諏訪人は異質、気性激しく、性格が丸くないといわれます。真面目、頑張り屋です。標高平均1000mの酷寒の地に生まれ育つとそうなるでしょうね。
私は南信州、気候暖かく、性格丸く、ノンビリやが多いそうです。
「八甲田山死の彷徨」「聖職の碑」・・・得意の気象と山岳をからまえたものです。
「霧の子孫たち」が好きです。霧ヶ峰の自然から守るため観光道路のにコースを変更させた話です。郷土愛です。
考えられないです。
たぶん、自分も栄養失調、乳も停まっていたでしょう。
生きて日本に子どもたちを連れて帰った。それだけで奇跡です。
満蒙開拓者の残留孤児、子どもだけは命を永らえるように中国人に預けた、そんな母たちの気持ちもわかります。
コメントありがとうございました。