父の炒り卵
父の〝秘蔵っ子〟だった。
ガキ大将がそのまま大人になったような父。
自営業ゆえの気ままさ故でもあったのだろう、
ふらっと出かけることもしばしばで、
そんな時は末っ子の私をいつも連れて歩いた。
夜の繁華街へ、またある時は魚釣りの磯へと。
大人になっても、私は父の〝秘蔵っ子〟だった。
何気ない日常の中での父とのやり取りが無性に恋しい。
たとえば卵。これを見ると必ず父の顔が現れてくる。
「おい、あれを作ってくれんか」
ぶっきらぼうに、それでもちょっとねだるように言う。
私が社会人に成りたて間もない休日のことだった。
母は不在なのか、寝坊した私をじれったく待っていたようだ。
「あれ」とは炒り卵のこと。
戦時中もどうにかして卵を手に入れたという父が、
何よりも好んで食べた卵料理だった。
年季の入った雪平鍋に卵2個、みりん、砂糖、
それに出汁を目分量で入れて混ぜ合わせる。
これくらいかなと思っても、甘党の父には物足りないことが多いから、
「ねえ、ちょっと味見してみて」と念を押す。
すると父は、「おう」と椅子から立ち上がり、
肩をすぼめて私の後ろから小指の先をちょんとつけて舐め、
「もうちょっと砂糖を入れんか」とくる。
そう言うと思った。
甘さが決まったところで、最後に醤油をひとたらし……。
これがまた父の好みだった。
鍋の中から卵と砂糖の甘い香りが漂い、
火にかけると香りは一層強くなった。
4本に増やした菜箸で鍋をかき回すたびに、香りも一緒に踊る。
「あんまり混ぜ過ぎんな。炒り過ぎたらいかん」
「はい、はい、はい」と笑いながら箸のスピードを緩める。
しっとりした炒り卵の出来上がりだ。
鍋ごと食卓に置くと、父は待ち切れんかったぞと言わんばかりに
炒り卵を木匙でたっぷりすくってご飯にのせ、口いっぱいに頬張った。
味噌汁と漬物だけでもりもりと食べ、炒り卵を何度もお代わりした。
残り半分ほどになったところで、やっと
「お前も食うか」と言ってくれ、山盛りいっぱい乗せてくれた。
さらに、鍋肌にこびりついた炒り卵をこさぎ取り、
「これがまた美味いんだ」と言いながら、ご飯に振りかける。
その甘くて香ばしいにおいが、
父と2人きりの食卓をふんわり包み込んでいった。
もう父と炒り卵を作ることも、食べることも出来ない。
父は遠くへ行ってしまった。
「この頃は夢にも出てきてくれないのね。そろそろ出てきてよ。
たくさん話したいことがあるんだ。ご飯も一緒に食べよう。
炒り卵作るからさあ」