Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

恋しい③  SANAEの場合

2021年06月17日 06時00分00秒 | ショートショートSTORY

       父の炒り卵


父の〝秘蔵っ子〟だった。
ガキ大将がそのまま大人になったような父。
自営業ゆえの気ままさ故でもあったのだろう、
ふらっと出かけることもしばしばで、
そんな時は末っ子の私をいつも連れて歩いた。
夜の繁華街へ、またある時は魚釣りの磯へと。
大人になっても、私は父の〝秘蔵っ子〟だった。

         

何気ない日常の中での父とのやり取りが無性に恋しい。
たとえば卵。これを見ると必ず父の顔が現れてくる。
「おい、あれを作ってくれんか」
ぶっきらぼうに、それでもちょっとねだるように言う。
私が社会人に成りたて間もない休日のことだった。
母は不在なのか、寝坊した私をじれったく待っていたようだ。
「あれ」とは炒り卵のこと。
戦時中もどうにかして卵を手に入れたという父が、
何よりも好んで食べた卵料理だった。


年季の入った雪平鍋に卵2個、みりん、砂糖、
それに出汁を目分量で入れて混ぜ合わせる。
これくらいかなと思っても、甘党の父には物足りないことが多いから、
「ねえ、ちょっと味見してみて」と念を押す。
すると父は、「おう」と椅子から立ち上がり、
肩をすぼめて私の後ろから小指の先をちょんとつけて舐め、
「もうちょっと砂糖を入れんか」とくる。
そう言うと思った。
甘さが決まったところで、最後に醤油をひとたらし……。
これがまた父の好みだった。

          

鍋の中から卵と砂糖の甘い香りが漂い、
火にかけると香りは一層強くなった。
4本に増やした菜箸で鍋をかき回すたびに、香りも一緒に踊る。
「あんまり混ぜ過ぎんな。炒り過ぎたらいかん」
「はい、はい、はい」と笑いながら箸のスピードを緩める。
しっとりした炒り卵の出来上がりだ。

鍋ごと食卓に置くと、父は待ち切れんかったぞと言わんばかりに
炒り卵を木匙でたっぷりすくってご飯にのせ、口いっぱいに頬張った。
味噌汁と漬物だけでもりもりと食べ、炒り卵を何度もお代わりした。
残り半分ほどになったところで、やっと
「お前も食うか」と言ってくれ、山盛りいっぱい乗せてくれた。
さらに、鍋肌にこびりついた炒り卵をこさぎ取り、
「これがまた美味いんだ」と言いながら、ご飯に振りかける。
その甘くて香ばしいにおいが、
父と2人きりの食卓をふんわり包み込んでいった。

もう父と炒り卵を作ることも、食べることも出来ない。
   父は遠くへ行ってしまった。
    「この頃は夢にも出てきてくれないのね。そろそろ出てきてよ。
         たくさん話したいことがあるんだ。ご飯も一緒に食べよう。
              炒り卵作るからさあ」



恋しい②    KEIKOの場合

2021年06月15日 06時00分00秒 | ショートショートSTORY

       カレーライス

なぜか父は、決してカレーライスを食べなかった。
この日の夕食もカレーで、母、兄、それに私の前には
カレーが置かれていた。なのに、父の前だけは魚だった。
人の心を推し量ることが出来ようもない小学生の私は、
つい、父をなじるように言ってしまった。
「父さんはどうしてカレーを食べないの? 
みんなと同じものを食べないなんて、わがままなんじゃない」
だが、父は何も言わなかった。
ただ、戸惑った表情の母に少しだけカレーを持ってこさせ、
そして黙って、そのカレーを食べ始めた。それも箸で。
重苦しいような雰囲気──いたたまれなくなった私は、
スプーンを取りに行き、父の前に置いた。
けれど、父がスプーンを手にすることはなかった。

         

母に先立たれた父は、山口県・小野田の実家で独り暮らしとなった。
そんな父の元へ、私は月に一度、お弁当を作って福岡から通ったのである。
いつも草取りをしながら私の来るのを待っていた父は、
私の顔を見ると「よいしょ」と腰を上げ、
にこにこと手を振って迎えてくれたものだ。
しかし、そうしたことも半年ほどのことだった。
兄夫婦が「父の面倒はオレが見よう」と言って戻ってきたのである。
普通だと、喜ばしいことに違いないのだが、
残念なことに兄夫婦との同居はうまくいかなかった。
おっとりとした性格の父に対し、兄は何かと口うるさい。
2人のそりは合うはずもなかった。
私自身も兄に対しては父と同じような思いを抱いていたから、
父に申し訳ないと思いつつも小野田通いの足も遠のいていった。 

そんな父の楽しみは、やはり母の墓参りだったようだ。
2キロの道のりを週に1度、自転車で通っていた。
その霊園の入り口には公衆電話があり、
墓参りを済ませた父は、その公衆電話から
いつも私に電話してきたのだった。
会話は「今朝は冷え込んだな」「庭の菊を仏壇に供えたよ」とか、
ありきたりのものではあったが、父の声に私の心は安らいだ。
そして、「元気でな」「じゃあね」で終えるのが常だった。

         

そんな父が、体調を崩した私を見舞いに来てくれたことがある。
夫は恐縮しながらも喜んで、手料理をふるまおうと張り切っていた。
しばらくすると、何とカレーライスの匂いがするではないか。
「しまった」夫には、
父はカレーを食べないのだということを話していなかった。
「大変なことをしてしまった。どうしよう」混乱した。
ところがである。
「KEIKOもこっちにきて食べんかい」襖の向こうから父が呼ぶ。
「えっ」と訝しげに襖を開けると、
父が「うまいぞ。よくできとる」とスプーンを使って
カレーを食べているではないか。
私はさらに驚き、混乱し、夫のカレーが喉を通らなかった。

父は4年間の、あの過酷なシベリア抑留を経験していたのだ。
カレーライスを決して食べようとしなかったのはそのせいだった。
収容所の食事は、薄茶色のスープに数個の豆が入っているものばかり。
それをスプーンで掬って食べていたそうだ。
カレーを見るとシベリアを、そして亡くなった仲間を思い出す。
だから「見たくも食べたくもなかった」のである。

      「恋しいな お父さん。
        あの霊園の公衆電話に電話してみようかな。
          カレーライスは食べていますか。
            もう一度夫のカレーライスを食べに来ませんか」



恋しい①    AKIKOの場合

2021年06月13日 16時37分12秒 | ショートショートSTORY

         30本のバラ


つけっ放しにしていたラジオから加藤登紀子の「百万本のバラ」が、
夕食の支度をするキッチンのカタコトという音に紛れ込んでくる。
月日とともに流れ薄れていく記憶が、
時に何かに触発され引き戻されることがあるように、
この歌は、やはり亡き夫を思い出させる。

        

出会って以来、彼は私の誕生日には欠かさずバラの花束を贈ってくれた。
それも30本も。貧しい絵描きが、小さな家とキャンパスを売り払い、
街中のバラをすべて買い、恋する女優に贈った100万本にはとても及ばないが、
その30本は、彼の思いのたけが込められているはず、
そう信じ素直にうれしかった。
「誕生日は忘れないで花束を贈るが、
          その女性の年齢は忘れているのを紳士という」
なんて、臆面もなく気障な言葉を添え、
深紅の時もあれば、柔らかなピンクの時もあり……
結婚してからもつましい暮らしではあったが、
それはこの世を去るまで続いた。

彼と別れてもう15年になる。
正月早々のあの日、私は自分の人生も一緒に終わってしまったと思った。
頼りにしていた人を失くし、たった一人で生きていく。
これからの自分の人生はもう、未来も、希望もない、
モノクロの世界に入ってしまったようにさえ感じた。
周囲の慰めの言葉も心には届かず、空しく響くだけだった。
心は閉じていくばかりで、誰とも話したくなくなり、
気遣ってくれる母さえ寄せ付けない鬱の状態が数カ月も続いた。

なぜ、CHIEKOのことを思い出したのか、今でも判らないが、
ふと思い立って、彼女の住む海辺の街を訪ねた。
CHIEKOは離婚し、難病の娘を10年以上も
介護しながら細々と暮らしている。
苦労しているはずなのに、久しぶりに会った彼女はまったく違っていた。
何と明るく屈託がないことか。
その生活すら楽しんでいるように思えるほどであった。
そんな彼女を見て、私の閉ざされていた心が、
かすかではあったが開いていったのである。
CHIEKOには、今まで素直に話せなかった気持ちを包み隠さず話せたし、
虚ろだった私の心は高まっていき、ついにはまさに臆面もなく号泣したのである。
彼女は静かに耳を傾けてくれ、頷いているだけだった。
それだけでよかった。
吐き出した言葉と涙の量だけ、心が軽くなっていった。

        

帰途、海沿いの高台に登り、落陽を眺めた。
20分ほど佇むうちに、海が静かに太陽を飲み込んでいった。
自然の織り成す荘厳さが心を打つ。
人生の黄昏も独りで乗り切れるかもしれない。
そんな思いが、かすかではあったが湧き始めたのである。



    偶然、花屋の前を通りかかると、見事な白いバラが……。
    惹かれるように見入ってしまった。
    すると、ガラスケースに彼のニヤリとした顔。
    大変、大変! 今日は彼と別れた記念の日だった。
   「ごめんなさい」──ありったけの白バラを抱え、家路を急いだ。
   「どう 私もしっかり生きているでしょう」