Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

濡れそぼったテニスボール

2023年08月31日 09時38分07秒 | エッセイ


怪しい。空が急に暗くなってきた。黒い雲がどんどんこちらへ近づいてくる。
来るな──そう思ったとたん、ピカッと光り、ガガーンと鳴った。
フロントガラスにぽつりぽつりしていた雨が急に激しさを増した。
そして、どんどん激しさを増していく。
ワイパーの勢いも強雨に抗しきれず、前方の車の赤いライトを捉えるのがやっとだ。
怖い。スピードを落とす。合わせるように前の車もスピードダウンした。
左を見ても、右を見ても皆同じように、
恐怖におののいたのか、ゆるゆると走っている。
 
         


だが、幸いなことにこの強雨は長くは続かなかった。
これまた急に雨の勢いは落ち、15分ほどで傘が不要なほどになった。
おかげで駐車場から我が家まで、まったく濡れずに済んだ。
新聞紙上で〝ゲリラ豪雨〟という表現を使っていたが、
先ほどの雨はそうではなかったのか。
いやー、ひどかった。怖かった。


        

閉め切っていたガラス戸を全部開け放つ。
あの強雨に打たれた風が、少しばかりの涼しさを部屋の中に入れる。
あれ。ベランダの片隅にテニスボールが一つ、
濡れそぼって転がっている。
我が家のすぐ側にはマンション共有のテニスコートがある。
時々、マンションに住む子どもたちがテニスに興じていることがあるから、
このボールも打ち損じたものが金網を飛び越して、
我が家のベランダに落ちたのだろう。
これまでも、そんなことがたびたびあった。
そんな時には、子どもたちが我が家のチャイムを鳴らし、
「ボールを取ってください」と言ってくる。
だが、この日は我が家は誰もいなかった。
しかも、あの突然の雨である。
子どもたちもボールのことより、我が身大事と逃げ帰ったに違いない。
おそらく、ボールと同じようにスプ濡れになったのではあるまいか。

そのボールは子どもたちの目につきやすいように台の上に乗り、
チャイムが鳴るのを待っている。



コロナ完治

2023年08月30日 09時49分54秒 | 思い出の記


コロナの後遺症に苦しんでいる人も多いと聞くが、
そのような方には何だか申し訳ないような気もする。
確かに「陽性です」と宣告されはした。
咳に鼻水とあれば、コロナと疑われてもしようがないが、
3月に罹った肺炎に比べ症状は比べものにならないほど軽かった。
あの時は腹筋が痛くなるほどのひどい咳だったし、
熱も38度を超えた。
それを思えば、今度は熱もないし
「軽い夏風邪だろう」なんて思えるほどのものだった。

咳・鼻水が出始めたのは盆休みに入った13日頃からだったろうか。
病院も休みに入っていたから手元にあった咳薬でしのいでいた。
そして休み明けとなった17日、病院へ行き
「軽い咳と鼻水があるのですが……。熱はありません」そう告げると、
途端に女医さんの顔つきが険しくなった。
「はい、コロナの検査をします。別室へ移ってください」容赦なくそう告げ、
そして10分後、「やはり陽性でした」と思いもしない宣告をしたのだった。

症状が出始めたのが13日頃だから、すでに5日間ほど経過していることになる。
「あと5日間、特に症状がひどくならなければ大丈夫でしょう」と言い、
咳・鼻水薬を出してくれた。
もちろん、しばらくは外出禁止。
家ではマスク着用、妻とは出来るだけ離れて生活すること……
などの注意事項を言い渡された。

薬を服用すると、咳・鼻水も治まっていった。
5日後、先生にそう告げると「もう大丈夫でしょう」今度は完治宣告だ。
この間、何の苦痛もなく、幸い妻もいつものように元気いっぱい。
「コロナってこんなもの」と拍子抜けするほど。
幸いだったと言うほかないだろう。



コロナ陽性

2023年08月18日 09時17分26秒 | エッセイ


思いもしなかった。
コロナに罹ってしまった。
4、5日前から咳、くしゃみが出ていたのだが、
それほどひどくもなく、熱もなかった。
軽い夏風邪かな、くらいに思っていた。
おまけに病院も盆休み中だったから、
手元にあった咳止め薬を飲み、様子を見ていたのだ。

盆休み明け、かかりつけ医も診察を始めた。
毎月一度は高血圧など薬をもらいに行っているので、
そのついでに診てもらうことにした。
この日は、肝・腎臓のエコー検査をすることになっていたので、
それが済んだあと、
「先生、この数日咳とくしゃみが出ているんですよ」
そう話すと、女医さんの表情が途端に険しくなった。
「なぜ、それを最初に言わなかったんですか」
「だって先生、診察室に入るなり、
〝はい、横になってください。エコーの検査を始めます〟
とおっしゃるものだから、それが済んでからでもいいやと思ったんですよ。
それに熱もないので、大したことないだろうと思ったものだから……」
そんな言い訳はもちろん通用しない。
「はい、コロナの検査をします。別室へ移ってください」
診察室から追い出されてしまった。
   
        

検査からおよそ10分後。先生がやって来て無常な宣告。
「陽性でした」
咳、くしゃみは出るがそれほどひどいとも思わないし、熱もない。
コロナワクチンもこれまで6回、まじめに接種してきた。
マスクが個人の判断に任せることになっても、
外出する時は生真面目にちゃんとしている。

「では、どうすればよいのです」
先生に尋ねた。
「外出はしばらく見合わせてください。
家では奥さんとは出来るだけ離れて生活してください。
もちろん、お二人ともマスク着用で……。
もう数日すると容態も収まるはずです。
咳、くしゃみ止めの薬を出しておきます」

玄関に出迎えた妻へ
「おい、マスク、マスクをしてくれ」




ピカドン

2023年08月10日 09時15分21秒 | エッセイ


ただ、ただ祈るばかりである。
被爆者健康手帳を所持してはいるが、被爆者という実感は薄い。
被爆二世というわけではない。
原爆投下時、3歳になったばかりだったとはいえ、れっきとした被爆者である。
本来なら、原爆の悲惨さを語り継ぎ、
反戦・非核への役割を果たすべきなのであろうが、
おそらく語る言葉には現実感がないはずである。

            

爆心地から3・5㌔、長崎市新地町、あの中華街のある付近に住んでいた。
昭和20年8月9日午前11時2分、
何かがぴかっと光り、ドーンと大きな音。
家はガタガタと不気味な音を立てた。
側にいた姉が幼い僕に覆いかぶさり、得体のしれない恐怖から守ってくれた。
幸いに爆風で家屋が倒壊、炎上するでもなく無事であった。
〝ピカドン〟に対する僕の記憶はこの程度である。
それも、本当にそうだったのかどうか。
後に姉たちから聞かされた話が自らの記憶として残ってしまったのではないか。

正直なところ、被爆の恐怖、悲惨さを直に目にし、感じたことはまったくない。
わずかに爆心地近くにあった当家の墓掃除へ行った際、
石柱に埋め込まれたヤリみたいな鉄の棒がぐにゃりと曲がって何本も残っており、
「こん、ひん曲がった鉄の棒は、ピカドンのせいたい」祖母からそう聞かされ、
原爆というものが、鉄の棒をこんなにも曲げてしまうほど
力が強いものだと初めて知った。

被爆直後多くの人が『水を、水を』と求め、這いずるようにやって来た浦上川。
小学生になった頃だったろうか、そうとは知らず、この川で遊び興じたことがある。
すると母の険しい顔が僕らに向いた。
以後、二度と川に入ることはなかった。
その母自身、爆心地近くに住んでいた妹家族を誰一人見つけられず失意の中にいた。
この時、母と同行した長兄にしても時を経て青年期になり、
打ち身か何かで腕や脚にポツンポツンと内出血したりすると、
「原爆症ではないか」と恐れおののいたものである。



爆心地の浦上地区は多くのキリスト教徒が住んでいた所である。
一説には1万5千人が住み、このうち1万人が被爆死したとされる。
廃墟の中にポツンと立つ浦上天主堂の鐘楼ドームや
無傷ながら熱線で変色してしまったマリア像、
これらが長崎における被爆のシンボル化されもした。
そうとあってか、反戦・非核運動が今よりずっと活発な頃、
〝行動の広島、祈りの長崎〟という言われ方をした。
そこには「長崎は祈るばかり。非核運動には熱心ではない」との誹りがあった。

こんなわずかばかりの〝被爆体験〟で、いったい何を語り継げようか。
広島に、長崎に原爆が投下されて78年。
長崎の被爆式典は台風の影響で大幅に縮小されたが、
テレビニュースを見ていると浦上天主堂の鐘の音はいつものように響いていた。
かすかであろうが我が家の墓地まで届いたはずだ。
ここには原爆におののいた母も長兄も一緒に眠っている。
11時2分、戦争のない世界をと、ここ福岡の地から祈るばかりだ。精一杯に。