「たばこない? 1本恵んでよ」
——試合を終えて間もなく、かねてから親しくしている
記者の求めに応じて体育館そばの芝生に座り、
そして、たばこをねだったのだった。
くだけた言いようではあったが、彼はまだ、
リングへのシュート一本を争った厳しい闘いの中にいるかのように
身を緊張させていた。
そのせいであろう、一服するなり、いきなり「うえっ」となり、
記者が差し出した吸い殻入れの中にポイと放り込んだ。
そもそも彼はたばこを吸っていただろうか。記者は心中に問い返しながら、彼がいかにこの試合にかけていたか、その思いを巡らせたのだった。
インターハイに、甲子園大会等々、
さまざまなスポーツに打ち込む高校生たちの夏である。
彼らは身に心に稀なる才を秘めているのだが、
それを引き出し、開花させ得るかは指導者の如何にかかることが大きい。
多くの指導者を取材する記者は、取材を重ねるうちに
自然とそうしたことを学び、それを見抜く感覚を研ぎ澄ましていく。
彼が地方の女子高にやって来たのは1966年だった。
学生時代、バスケットボールに打ち込んだ校長が、
自らの学校を何とか全国に名の通る強豪チームに育て上げたいと、
彼をその監督に招いたのである。
高校、大学とプレーヤーとしては多少名を知られた存在であったが、
指導者としての実績があったわけではない。
ただ、校長はバスケットボールに対する彼の一途さにかけたのだった。
記者が彼と初めて顔を合わせたのは、その1年後のことだった。
かねてから面識のあった校長から
「うちの監督を取材してくれないか」と
ひそかに申し入れがあったのである。
校長が見込んだ通り、彼のバスケットボールにかける
情熱はすさまじかった。
一切手を抜かず、また後にバスケットボール界で
「闘将」と称されたように、
練習時から闘志むき出しで指導にあたっていた。
そのあまりの激しさに記者は息を飲んだ。
その後もたびたび取材のため彼に会いに出かけたのであるが、
記者にすれば、怒鳴りつけられ、ボールを投げつけられては涙を流す、
まだ高校生の彼女たちへの思いが勝ち、
「あまりにひどすぎないか。それも記者である僕の目の前で……」
そう抗議しかけたのである。
だが、それをぐっと飲み込んで心中に収めておいた。
実は、記者はそんな彼の指導についていけず
退部した者がいるはずだと思い、ひそかに調べていた。
その結果は、驚いたことに1人の退部者もいなかったのである。
彼女たちはあれほど厳しい彼になぜついていくのか。
彼にどんな魔術をかけられているのか。
記者は自身に問うた。自分も彼に会うたびに惹かれていく。
そう感じてもいた。
それは言葉では尽くせない、心に突き刺さるような何かであった。
チームは着実に強豪校への階段を駆け上がっていった。
そして、1972年春の選抜大会を初めて制し、
続けてインターハイで一本のシュートを争う大接戦をしのぎ切り、
2つ目の全国制覇に成功したのである。
彼は記者の吸い殻入れに一服だけした吸い殻をポイと放り込み、
「疲れたなあ」そうつぶやくように言った。
プレーする選手たちは、もちろん心身ともに疲れ切る。
それは当然のことであろう。
指揮する監督はどうか。彼らもまた、「どうすれば勝てるか」に、
使い古された表現ながら全身全霊を打ち込むのである。
記者は「疲れたなあ」の一言を優勝監督のコメントとした。
「なあんだ。先生、ここにいたんですか。もう表彰式が始まりますよ」
選手たちが、それこそ満面の笑みで呼びかけてくる。
よく見ると、選手と一緒に彼の奥さんがいた。
彼女は彼の教え子、バスケットボール部のOGなのである。
勢いはさらに続いた。
彼に率いられたチームは秋の国体でも優勝し、
春の選抜大会、夏のインターハイと合わせ、
史上初となる3冠を成し遂げたのである。
この時はたばこをねだったりはしなかった。
3冠監督のコメントは「何と言っても、あの子たちの笑顔だよな。
その笑顔のために選手も監督も頑張れるんだよ」であった。