Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

昭和に生まれたかった

2021年06月26日 06時00分00秒 | エッセイ


      新聞の投書欄に拾った話──。
      14歳の女子中学生が、「今の時代、つまらない」と嘆き、
      そして、こう叫んでいる。
     「昭和に生まれたかった!」

     「昭和」と言っても63年間ある。
      戦争に苦しんだ時代、食うや食わずの戦後の復興期、
      それらを乗り越えて享受した高度経済成長期、
      さらにバブル経済が崩壊し、
     「失われた20年」と言われる低迷期……。
      昭和という時代にはさまざまな起伏、形相がある。
      さて、この少女が「生まれたかった」という昭和は、
      どの昭和であろうか。

          
              戦後、日本は驚異的な経済発展を遂げた
  
     「昭和生まれの母は、
      自分が子どもだった頃の話をよく聞かせてくれる。
      友達と黒板で伝言をやり取りしたこと、
      冬の寒い日は制服の下にジャージーを着てわいわい登校したこと、
      倉庫にお菓子を持ち込みキャンプしたこと……。
      全てがおおらかで自由に思え、うらやましいと感じる」

      少女は14歳だから、母親はおそらく40歳前後、
      つまり1980年代の生まれではないかと思われる。
      1960~70年代の高度成長期を経て安定成長期に入った頃であろう。
      バブル崩壊前の、まだ豊かさを享受した時代である。
      ある知人は、その時代を「生活が豊かになると共に、
      心に安心感、ゆとりが生まれ、
      さまざまな価値観を受け入れる懐の深い、
      大変に許容性のある社会だった」という。
      娘に自分の子どもの頃を話して聞かせた母親は、
      そんな時代に育ったのであろう。

      だが今は──
     「高度経済成長は遠い昔のこと。人の暮らしも、
      取り巻く社会情勢も余裕を失くしてしまっている」
      知人はそう続ける。

      この少女の嘆きはもっと深刻かもしれない。
     「今の時代、人々は外で遊ばず、
      まるでゲームやスマホに取りつかれているようだ。
      将来、私たちの働き始める頃には、仕事はAIにとって代わられ、
      もっと家にとじこもってしまうのではないか。
      便利な時代と言う人もいるだろうが、
      私はつまらない、と思ってしまう」
     「便利さは、人の触れ合いなど多くの大切なものを
      奪っていくのかもしれない。だから私はよく思う。
      昭和に生まれたかった」

           
              1964年の東京オリンピック開会式   

      さてさてどうしたものか。
      あの頃に戻るにはタイムスリップするしかないか。
      おや10月10日、東京の空に五輪のマークが描かれている。
      高度経済成長を象徴した東京オリンピックは1964年だった。
      あれから57年。
      2度目の東京オリンピック・パラリンピックはひと月後だ。
      時代は移ろう。
     「平成に、令和に生まれてよかった」と思える日も来よう。
      そうなるよう、あなたたちに頑張ってほしい。



親のせいです

2021年06月23日 06時00分00秒 | エッセイ

      笑い飛ばしてください。

     先日初めて行ったイタリア料理店での話です。
     この店は、イタリア人のご主人と
     日本人の奥さんが経営されており、
     ご主人が「心を込めた」ピザとパスタを堪能した。
     会計は妻に任せ、先に車へ。
     妻の様子が何だか変だ。
     笑いをかみ殺しているような様子で戻ってくる。
     そして、車に乗り込むなり、堤防が決壊したかのごとく、
     いきなり「はっはっは」と声を上げて笑い出した。
     何だ何だ。

        
          イタリア料理店「アプテカ フレーゴ」
   
     笑いながらの話は、聞けばこんなことだった。
    「あなたのご主人はイタリア人、いやハーフなのではないですか」
     レジにいた奥さんがそう言い出したのだ。
    「えっ」と驚く妻。
    「だって、夫のイタリアの友だちにそっくりなんですもの。
     ねえ、あなた」とイタリア人のご主人に問えば、
    「そうなんだよな。僕もそう思っていた」
     流ちょうな日本語でそう言い、何度もうなづく。
    「とんでもない。純粋の日本人ですよ」と言いつつ、
     妻の笑いは爆発寸前。
     確かに夫、つまり僕の顔立ちと言えば、
     全体に小振りな割に中心にある鼻は高く、大きい。
     目は少々くぼんでおり、ちょっと見は異人風と言えないこともない。
    「何がイタリア人よ。鼻が大きいだけ。よぼよぼの純血日本人だわ」      
     君!それは余計だろう。
     
         
               長崎・出島

     妻から笑われながら、そんな話を聞かされ思い出した。
     小学生の頃のことだ。
    「お前、ポルトガル人の血が入っているんじゃないか」
     よくそう言われていた。
     生まれ育った長崎と言えば、
     ポルトガル人の居留地として建設された出島がある。
     そのポルトガル人の血がいつの間にか
     家系の中に紛れ込んだのではないか。
     そんなふうに見られたのである。
     もちろん、ノー、ノー、ノーである。

     さらに高校生時代。
     音楽の先生がこう言った。
    「アラン・ドロンにそっくりね。良い男だこと」
     周りにいた同級生は笑いをかみ殺し、
     僕は耳たぶを真っ赤にして下を向くしかなかった。
     独身だった女の先生はさらに廊下ですれ違いざま、
    「ドロン君、今日もハンサムだね」と話しかけてくる。
     嬉しいようでもあり、ひどく恥ずかしくもあり、それでも
     アロン・ドロンの初期の映画は欠かさず見に行った。

        若き日のToshi です

     顔つきだけではない。
     生まれついてのかすれ声で歌えば、
    「まあ、ロッド・スチュアートそっくり。素敵」と言われる。
     そう言われるままに、ロッド・スチュアートの
     CDは何枚も持っている。

     決して僕のせいではありません。
     文句がおありなら親に言ってください。
     早々にご免くださいませ。



日がな一日

2021年06月21日 15時00分00秒 | 日記


6月20日 日曜日 晴れ 福岡地方の最高気温28.5度

     「紫陽花はもう盛りを過ぎただろうな」そう思いつつ
     巣ごもり生活からわずかでも脱出してみようとの思いが勝ち、
     福岡県内の紫陽花名所を調べ、
     それもあまり知られていない所へ出かけてみることにした。



     車で一般道路を走り、ほぼ1時間圏内という条件で
     絞り込んでみると、宮若市山口の小原地区に
     アジサイロードみたいな所を見つけた。
     とにかく行ってみよう。9時出発。
     現地に着いてみると、らしき所が見当たらない。
     仕方がない。農作業中の婦人に聞いてみると、
    「この道をもう少し行くと、ありますよ」という。
     確かにあった。
     水田の畦道沿い、それに民家の玄関、庭先に紫陽花が見える。
     だが、ポツンポツン。ありゃりゃ。
     それも、近づいてみると盛りを過ぎているのは明らかだ。
     紫陽花のせいではない。時宜を逸したのは、こちらの怠慢。
    「では、失礼します」紫陽花に丁重に頭を下げ、
     そそくさとお別れした。



     さて、これからどうするか。計画は何もない。
     とりあえず、「九州一」と自称する
     道の駅むなかたに行ってみることにした。
     何と駐車場は満車、店内に入る人数を制限しているようで、
     入場を待つ人がずらり並んでいる。
     トイレだけお借りすることにした。

     11時を過ぎているから昼食をどうするかだ。
     この宗像地区だと海鮮物なのだろうが、閉店しているところも多く、
     開店中の店は待ち時間が相当ある。
     何度か来たことがある近くの国民宿舎のレストランを思い出し、
     スマホで検索してみると、何と国民宿舎自体が閉店中。
     言うまでもなく、コロナに直撃されたのだろう。

     さてさてどうしようと思っていたら、
     妻がかすかな記憶を呼び起こした。
    「イタリア人が経営するレストランがあると聞いたことがある」
     調べてみると、福津のそう遠くない所に
    「A.PUTEC FLEGO」(アプテカフレーゴ)という
     イタリア料理店があった。
     久し振りのパスタやピザも悪くないだろう。
     ナビに従って走っていくと、周囲を田畑に囲まれているのに、
     車がずらりと停まっている建物が見えてきた。
     間違いなかった。ここだ。

             

     ほぼ満席に近く、どうにかカウンター席に案内してもらった。
     オーナーであるイタリア人のシルビオさんが、
     日本人妻の郷里・福津にイタリア野菜の農園を始め、
     後にカフェ、レストランを開店したそうだ。
     シルビオさんが「心を込めて」焼くピザ、
     それにパスタが人気で、評判の店らしい。
     自家生産のイタリア野菜をふんだんに使った
     ピザとパスタをそれぞれ注文したが、
     年寄り2人にはちょっと量が多い。
     食べきれなかったピザは孫へお持ち帰りだ。



     帰途は福津の海岸沿いを走る。
     ちょっと海水浴場に寄り道。
     まだ6月なのに泳いでいる人がたくさんいる。
     駐車場に止めた車が脱衣所で、
     母親から体を拭いてもらっている小さな子が
     唇を紫にし「キャッキャッ」はしゃいでいる。
     最後に海で泳いだのは何年前になるかな。
     孫がまだ小さい時、海水浴に連れて行ったのが最後だろうから
     20年ほどになるか。もう一度泳いでみたいな。




恋しい③  SANAEの場合

2021年06月17日 06時00分00秒 | ショートショートSTORY

       父の炒り卵


父の〝秘蔵っ子〟だった。
ガキ大将がそのまま大人になったような父。
自営業ゆえの気ままさ故でもあったのだろう、
ふらっと出かけることもしばしばで、
そんな時は末っ子の私をいつも連れて歩いた。
夜の繁華街へ、またある時は魚釣りの磯へと。
大人になっても、私は父の〝秘蔵っ子〟だった。

         

何気ない日常の中での父とのやり取りが無性に恋しい。
たとえば卵。これを見ると必ず父の顔が現れてくる。
「おい、あれを作ってくれんか」
ぶっきらぼうに、それでもちょっとねだるように言う。
私が社会人に成りたて間もない休日のことだった。
母は不在なのか、寝坊した私をじれったく待っていたようだ。
「あれ」とは炒り卵のこと。
戦時中もどうにかして卵を手に入れたという父が、
何よりも好んで食べた卵料理だった。


年季の入った雪平鍋に卵2個、みりん、砂糖、
それに出汁を目分量で入れて混ぜ合わせる。
これくらいかなと思っても、甘党の父には物足りないことが多いから、
「ねえ、ちょっと味見してみて」と念を押す。
すると父は、「おう」と椅子から立ち上がり、
肩をすぼめて私の後ろから小指の先をちょんとつけて舐め、
「もうちょっと砂糖を入れんか」とくる。
そう言うと思った。
甘さが決まったところで、最後に醤油をひとたらし……。
これがまた父の好みだった。

          

鍋の中から卵と砂糖の甘い香りが漂い、
火にかけると香りは一層強くなった。
4本に増やした菜箸で鍋をかき回すたびに、香りも一緒に踊る。
「あんまり混ぜ過ぎんな。炒り過ぎたらいかん」
「はい、はい、はい」と笑いながら箸のスピードを緩める。
しっとりした炒り卵の出来上がりだ。

鍋ごと食卓に置くと、父は待ち切れんかったぞと言わんばかりに
炒り卵を木匙でたっぷりすくってご飯にのせ、口いっぱいに頬張った。
味噌汁と漬物だけでもりもりと食べ、炒り卵を何度もお代わりした。
残り半分ほどになったところで、やっと
「お前も食うか」と言ってくれ、山盛りいっぱい乗せてくれた。
さらに、鍋肌にこびりついた炒り卵をこさぎ取り、
「これがまた美味いんだ」と言いながら、ご飯に振りかける。
その甘くて香ばしいにおいが、
父と2人きりの食卓をふんわり包み込んでいった。

もう父と炒り卵を作ることも、食べることも出来ない。
   父は遠くへ行ってしまった。
    「この頃は夢にも出てきてくれないのね。そろそろ出てきてよ。
         たくさん話したいことがあるんだ。ご飯も一緒に食べよう。
              炒り卵作るからさあ」



恋しい②    KEIKOの場合

2021年06月15日 06時00分00秒 | ショートショートSTORY

       カレーライス

なぜか父は、決してカレーライスを食べなかった。
この日の夕食もカレーで、母、兄、それに私の前には
カレーが置かれていた。なのに、父の前だけは魚だった。
人の心を推し量ることが出来ようもない小学生の私は、
つい、父をなじるように言ってしまった。
「父さんはどうしてカレーを食べないの? 
みんなと同じものを食べないなんて、わがままなんじゃない」
だが、父は何も言わなかった。
ただ、戸惑った表情の母に少しだけカレーを持ってこさせ、
そして黙って、そのカレーを食べ始めた。それも箸で。
重苦しいような雰囲気──いたたまれなくなった私は、
スプーンを取りに行き、父の前に置いた。
けれど、父がスプーンを手にすることはなかった。

         

母に先立たれた父は、山口県・小野田の実家で独り暮らしとなった。
そんな父の元へ、私は月に一度、お弁当を作って福岡から通ったのである。
いつも草取りをしながら私の来るのを待っていた父は、
私の顔を見ると「よいしょ」と腰を上げ、
にこにこと手を振って迎えてくれたものだ。
しかし、そうしたことも半年ほどのことだった。
兄夫婦が「父の面倒はオレが見よう」と言って戻ってきたのである。
普通だと、喜ばしいことに違いないのだが、
残念なことに兄夫婦との同居はうまくいかなかった。
おっとりとした性格の父に対し、兄は何かと口うるさい。
2人のそりは合うはずもなかった。
私自身も兄に対しては父と同じような思いを抱いていたから、
父に申し訳ないと思いつつも小野田通いの足も遠のいていった。 

そんな父の楽しみは、やはり母の墓参りだったようだ。
2キロの道のりを週に1度、自転車で通っていた。
その霊園の入り口には公衆電話があり、
墓参りを済ませた父は、その公衆電話から
いつも私に電話してきたのだった。
会話は「今朝は冷え込んだな」「庭の菊を仏壇に供えたよ」とか、
ありきたりのものではあったが、父の声に私の心は安らいだ。
そして、「元気でな」「じゃあね」で終えるのが常だった。

         

そんな父が、体調を崩した私を見舞いに来てくれたことがある。
夫は恐縮しながらも喜んで、手料理をふるまおうと張り切っていた。
しばらくすると、何とカレーライスの匂いがするではないか。
「しまった」夫には、
父はカレーを食べないのだということを話していなかった。
「大変なことをしてしまった。どうしよう」混乱した。
ところがである。
「KEIKOもこっちにきて食べんかい」襖の向こうから父が呼ぶ。
「えっ」と訝しげに襖を開けると、
父が「うまいぞ。よくできとる」とスプーンを使って
カレーを食べているではないか。
私はさらに驚き、混乱し、夫のカレーが喉を通らなかった。

父は4年間の、あの過酷なシベリア抑留を経験していたのだ。
カレーライスを決して食べようとしなかったのはそのせいだった。
収容所の食事は、薄茶色のスープに数個の豆が入っているものばかり。
それをスプーンで掬って食べていたそうだ。
カレーを見るとシベリアを、そして亡くなった仲間を思い出す。
だから「見たくも食べたくもなかった」のである。

      「恋しいな お父さん。
        あの霊園の公衆電話に電話してみようかな。
          カレーライスは食べていますか。
            もう一度夫のカレーライスを食べに来ませんか」