あの写真は、どこへ行ったのだろうか。
僕が一歳になるかならないか、そんな幼児の頃、
泣きじゃくる僕を母が膝に乗せ、抱きしめるようにあやしている、
あの写真だ。
僕のおちんちんがぴょろりとのぞき、
小学生くらいになると姉がそれを見せ、大笑いしながらからかった、
あの写真だ。
今でもはっきりと、しっかりと覚えている、
あの写真だ。
今、マリア像の横に置かれた写真の母は、
柔和な笑みを浮かべている。
その一方で、悲し気に涙する母が思い浮かぶ。
小学生になったばかりの頃、
八つ上の姉は路面電車の停留所近くにあった
一軒の家に僕を連れて行った。
迎えたのは母であった。
母はなぜ、父や僕ら六人の子たちが暮らす家とは
違うところに一人いるのだろう。
かすかな、たったこれだけの記憶で、小学生も高学年になると、
父と母は一時期、別居していたのだと分かった。
ただ、どんな理由だったのかいまだに知らない。
兄や姉たちが、「どうして」なんて教えてくれるはずもなく、
兄や姉たち自身も寂しく、悲しくて胸を痛めていたに違いない。
姉が僕を母の所に連れて行ったのは、
自分も母に会いたさに父には内緒で僕の手を引いたのであろう。
父と母はどうやって知り合い、結婚することになったのか。
そして二人は本当に仲睦まじい夫婦だったのか。
きっと、父との間に辛く、悲しいことがあり、別居したのであろう。
でも、別れないでくれた。
さだまさしは、
『(母には)悲しさや苦しさはきっとあったはず。
(でも、それらを) すべて暦に刻んで流してきたんだろう』と歌っている。
母もそうではなかったのか。
母の晩年、およそ五年ほどはやはり病室での記憶ばかりだ。
最初は脳梗塞だった。症状は軽く、言葉もしっかりしていたし、
体もさほどのダメージを受けていなかった。
だが、どうしたはずみだったのか入院中に転倒し、
大腿骨を骨折してしまったのである。
年寄りが足腰を骨折すると、
それが引き金となって寝たきりになるとよく言われるが、
その通りであった。
母を見舞ったある日。
その日はちょうど昼食時だった。
歩けないのでそのままベッド上で食事をしようとしている。
母の側に寄り、ベッドの端に少しだけ尻を乗せた。
おかゆみたいな流動食、それをスプーンで母の口に運んでやった。
すると、それを見とがめた看護師が
「やめてください」と言うのである。
「なぜ?」と語気を強めた。
ささやかな孝行を邪魔された思いだった。
「手助けすると、もう自分では食べようとしなくなりますよ」
……母の手を取り、そっとスプーンを握らせた。
他に悪いところはなかったが、日に日に体が衰えていくのが分かった。
おまけに認知症みたいな症状も出てきた。
病室に入り顔を見合わせると「遠いところをよく来てくれたね」と、
福岡から入院先の長崎まで高速道路で二時間かけてやって来た
僕を労ってくれるようなことを言うので安心したら、
その後の会話は誰と話しているのか、
まったく分からないものになってしまう。
唖然とし、そしてたまらず、「トイレへ」と飛び出すように
病室を出たとたんに涙が零れ落ちた。
妻は「もっと見舞ってあげたらよいのに……」と、
非難するような口ぶりで言ったが、
「そうだね」と気のない返事を繰り返すだけ。
そんな母を見るのは忍びなかった。
小学生になったばかりの、ある真夏の昼下がり、
遊び疲れ倒れるように畳に寝そべった僕の傍らに座った母は、
うちわで風を送りながらこう言った。
「子どもはね、親を選んで生まれてくるのだそうよ。
あなたは私を選んでくれたんだね。ありがとう」と言い、
そして、「ほれ、眉が下がっているよ。
眉が下がっていたら男前が落ちるからね。
指を湿らせ、それで眉をぎゅっと上げなさい」
半ば笑いながら舌先で湿らせた人差し指で僕の眉を横に引いた。
何とか笑顔を作り病室に戻った。
すると、母の人差し指が額の方へすっと伸びてきた。
でも途中で力をなくしポトリと落ち、母は目を閉じた。
それから一カ月ほど後だったろうか、
「おふくろの状況があまり良くない。
医者が状況を説明するらしいので、お前も来てくれ」
長兄からの電話だった。
待ち構えたように医師は、
右半分が真っ黒の母の頭部のレントゲン写真見せた。
「そんな切ないものを見せないでほしい」心中そう叫んでみても、
医師は素知らぬふうに
「一年後かもしれないし、明日かも……」と
冷たく告げたのである。
その悲しみは一週間後のことだった。
A4の紙を半分に折ったものよりやや小さい角形7号の、
茶の封筒があり、その中に僕の若き日々の写真が、
実に無造作に重なって入っている。
五十枚ほど、ほとんどが白黒で時代を表しているが、
なぜアルバムにきちっと貼るなどして大事に保存せず、
封筒にぽんと放り込み、
それをまた書類入れの中に紛れ込ませていたのだろう。
この封筒の中に平成七年に亡くなった母の葬儀の日の写真があった。
父はすでにない。
当家は男四人、女二人の兄弟姉妹で僕は末っ子だ。
長男、次男、それに長女、次女、そして僕。
写真には五人が並んで写っている。
二つ違い三男の兄だけがいない。
彼はすでに母より五年早く他界していた。
五十歳ちょっと手前の不幸だった。
一人欠けているとはいえ、兄弟姉妹が一緒に写っているものは
おそらくこの一枚だけだろう。
母の葬儀というのに、なぜか皆笑顔である。
あれから三十年近く年たつ。
残っているのは長女と僕の二人だけになった。
その姉も長年闘病生活を続けている。
母に抱かれ泣きじゃくる、姉からさんざんからかわれたあの写真は、
残念ながらこの封筒の中にはない。
もう一度見てみたいと思いはするが……。
おそらく、母の手元にあったのではないかと思うが、亡くなった際、
家財道具を整理するのに取り紛れ行方知れずになったのだろう。
二度と見ることは出来ないという少しばかりの寂しさはある。
でも、あの写真の情景は、八十を手前にしたこの年齢になっても、
脳裏にしっかり焼き付いている。
髭を剃ろうと鏡を覗き込むと、母がすーっと出てきて
「眉を上げなさい」と言い、人差し指を伸ばしてきた。
鏡に映したわが顔をしげしげと見つめてみると、
確かに長く伸びた眉が二、三本あり、それらがたらりと垂れている。
シワ、シミに加えて目尻が下がり、
おまけに眉が垂れてくると人相はやっぱり老人そのものである。
小さい頃は、母に言われるまま指を湿らせ横に引くと、
眉は一文字に近くはなった。
だが今はもう、あの頃とは違う。
同じようにやってみても、そうはいかない。
でも、母のしつこさは変わらない。
「ほれ、ほれ」と人差し指を伸ばしてくる。
仕方なく指先を舌で湿らせ、眉を横にきっと引いた。