Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

正義中毒

2021年01月30日 14時36分22秒 | エッセイ
    最近、やたらと「正義中毒」という言葉を目にし、耳にする。
    脳科学者・中野信子さんの造語らしい。
    その中野さんの著書2冊、「人は、なぜ他人を許せないのか?」と
    「ペルソナ 脳に潜む闇」の書籍広告が、同じ新聞の同じ日に
    もちろん別々の面に掲載されていた。
    どちらも10万部を超すベストセラーなのだそうだが、
    残念ながら読んだことはないし、
    特に買ってみようとも思っていない。

           

ただ以前、経済誌で中野さんのインタビュー記事を読んだことがある。
それで「正義中毒」という言葉が、中野さんの造語だということを知った。
著書「人は、なぜ他人を許せないのか?」に関するインタビューの中で
中野さんはこんな話をしている。

   「人の脳は、裏切り者や社会のルールから外れた人といった、
   わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに
         快感を覚えるようにできている」
   
   「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快感中枢が刺激され、
   快楽物質であるドーパミンが放出される」

   「この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、
   罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになる」

   「こうした状態を、私は正義に溺れてしまった中毒状態、
   いわば『正義中毒』と呼ぼうと思う。この認知構造は、
   依存症とほとんど同じだからだ」

        
    
    この本の新聞広告にも、「考えの異なる人=悪だと考えてしまう」
    「年齢とともに頑固になっていく」「SNS炎上に乗っかる人」
    「人の不倫を叩きたくなる」などといった文句が並んでいる。
    しかも、新型コロナウイルスの蔓延とも無関係ではないという。
    この「正義中毒」は、危機的な状況になればなるほど
    盛り上がりやすいそうだから、
    現況を考えれば「確かにそうだ」と頷きたくもなる。

「中毒」というのは、自分をコントロール出来なくなる状態であり、
しかも人を罰することに快感を覚えようとするのだから、厄介この上ない。
年を取ると認知機能は当然のように低下するし、
カッと切れ易くなるともいう。
残された時間はそれほど多くはなかろう。
大きく腕を振りかざすことなく、何とか穏やかに暮らしたいものだ。

巨人VS怪物

2021年01月29日 06時00分00秒 | エッセイ
    背後からの電柱の光を浴び、前方に黒づくめのシャドー巨人が出現した。
    両腕を横に大きく広げ、対峙するのは全身を鋼で包み黒光りする怪物である。
    そのいかつい巨体の怪物が今にも向かってきそうで、
    シャドー巨人がそれを阻止しようと身構える。

                                                         

                                      
 
    その怪物の愛称は「キューロク」と言う。
    図体に対して、何とも可愛げな名がついている。
    かつての花形蒸気機関車・9600型29612号である。
    決戦の場は、すっかり日の落ちた「豊後森機関庫公園」(大分県玖珠町)。
 

JR九大本線豊後森駅、そのすぐ側にある。
ここは、昭和9年から廃止された同46年までの間、九大本線の石炭、水などの
補給基地、あるいは機関車の入れ替え作業など重要な役割を担ってきた。
直径が20㍍弱の転車台を中心に放射線状に線路が機関庫へと延び、
それに従い機関庫は扇型となっている。
原形のまま残る機関庫は、九州ではここだけで、
国指定の登録有形文化財・近代化産業遺産である。

    90年近くもの間、雨風に打たれ続けてきた機関庫は、
    打ち捨てられたビルのようにコンクリートの壁面は黒ずんだ灰色をさらす。
    また、ところどころに戦時中米軍機に機銃掃射された
    痕を残しているのだというが、
    どれがそうなのか確かめようはない。
    割れるにまかせた窓ガラスは、もうその役割を放棄し、
    その破片が窓枠にしがみつく。
    転車台、そこから機関庫へ延びる線路は、言うまでもなく赤茶けている。
    そして、機関庫と転車台を後ろに従えるように、
    あの怪物「キューロク」がいる。
    夜になり、それらノスタルジックな構造物がライトアップされると、
    幽玄の世界となって浮かび上がり、フォトジェニックな世界ともなる。
            
    

    僕は、シャドー巨人となって「キューロク」と向かい合っている。
    80近い爺さんの一人遊びである。
    すると、機関庫の奥の方に、
    いくつもの小さな光がチカチカと飛び交っている。
    季節からしてホタルではない。
    遠くを行き交う車のライトが、割れた窓ガラスに乱反射しているのか。
    分からない。幽玄の世界に迷い込んだらしい。


移り気

2021年01月27日 09時54分24秒 | 小話
    「じゃ、僕は行くよ」貴男は冷たく背を向ける。
    「待って」消え入りそうな私の涙声。
    「だけど、僕の誘いを拒んだのは君じゃないか」
    「……」
    「ああ、分かっているよ。僕は心から君を愛しているし、
    君もきっと僕のことを……。
    だから、もう泣かないでほしい。さあ、こちらへおいで」
    貴男は優し気に言う。それがまた私の胸に刺さる。
    

    
    貴男のその純白の装いは、世の邪気を払う神の化身か。
    見まがうほどに高貴で神々しい。あらゆるものが貴男にひざまずく。
    貴男が大きく腕を広げれば、その腕に抱かれようと女たちが
    先を競ってやって来る。
    貴男を拒むなど、どうして出来ようか。
    幸運にも貴男の目に留まった私。気持ちは宙を舞っていた。
    そして貴男の腕が、柔らかく、温かく包み込こんでくれる。
    そんな幸せは束の間のことだった。
    私が初めて貴男の腕の中で胸をときめかせた時、
    貴男の視線の先にはもう別の女性がいた。
    貴男の素敵な顔は確かに私の方を向いていたけれど、目は違っていた。
    
    そんなことがその後も。私は気づかない振りをした。
    「何て移り気な」と詰りもしなかった。
    貴男が離れていくのが怖かったから。
    でももうダメ。これ以上貴男の移り気には耐えられそうもない。
    貴男は私の目を盗んで次から次へと、
    貴男の温もりを欲しがる女たちを迎え入れる。
    私が知らなかったとでも……。
    私は泣き続けていた。
    貴男の移り気は自分ではどうしようもない貴男たちの
    性(さが)なのだと分かっていても、
    やっぱり許せない。今日限り、きっぱりと……。
    泣きながら貴男を見つめる。
    ああ、何と美しい。
    腕をいっぱいに広げ、そして王者のように気取って歩く、
    その物腰の柔らかさ。私をまた惑わせる。
    仕方がない。貴男がどこへも行かぬよう、
    どこかに閉じ込めておくことにしよう。

    ──見慣れた青や緑など鮮やかな色彩のインド孔雀。この白孔雀はその白変種だという。
    尾羽をプルプルプルと震わせ、そして背から尾の先までの純白の長い羽を
    おもむろに扇 のように丸く広げていく。
    そして睥睨するかのように周囲を見回す。その神秘的で優雅な姿。
    だが、いつも見られるわけではない。繁殖期の1~3月、その暖かい午後、
    それも周囲に人が多くない平日にラッキーな日が多いのだそうだ。
    その幸運に大牟田動物園で巡り合った。

       白孔雀はどうやらここに幽閉されたらしい

そばにいてくれるだけでいい

2021年01月26日 10時04分45秒 | エッセイ
     腕を出し起き出そうとして、いや止めた。
     もう一度、腕を布団の中に入れた。
     「もう少し」「もうちょっと」このほんわりとした温もりの中にいたい。
     実に心地よい。
     10分ほどして、また腕を出す。また止めた。腕は再び布団の中。
     こんなことを何度か繰り返す。
     ただでさえ「春眠暁を覚えず」、実に眠り心地の良い候なのだ。
     仕事へ出かける日は6時前には起き出すが、今日はそうではない。
     「もう少し」「もうちょっと」の贅沢は許す、そう決める。


 v

うつら、うつらしていると頭の中を、
「そばにいてくれる だけでいい」「黙っていても いいんだよ」
とフランク永井が歌っている。
そうだった。「黙って、そばにいてくれるだけ」で
心地よくしてくれているものがもう一つあった。湯たんぽだ。
男性が抱く理想の女性像は、「そばにいて癒してくれる人」なのだそうだ。
「2人でいると安心する。何だか落ち着く。そして心が晴れやかになるような、
そばにいてくれるだけでいい」そんな存在なのだという。
おっと、話が脱線してしまいそうだ。
「黙って、そばにいてくれるだけでいい」それだけの話にしてみて、
湯たんぽがまさにそうだということを初めて知った。
数日前から妻に勧められ使い始めたのだが、これが実にいい。

           

     就寝30分ほど前に布団の中に入れておき、布団を温めておく。
     そして寝る時は、右側のお尻のあたりに置くのだが、
     最初はその部分だけが温かったものが、
     次第にその温かさが全体へと広がっていくのだ。
     当然、体全体がほかほかの温かさに包まれる。
     そんな寝心地の良さなのだから、
     「もう少し」「もうちょっと」となってしまうのも仕方あるまい、
     そう都合よく考えている。

実は、このブログ、寝床の中にいて頭の中で書いている。
あと30分、この温もりを貪り、覚悟を決めて起き出した後に文字にしよう。
そして今、やっとPCに文字を打ち込んでいる。


思い出の中に生きる

2021年01月23日 18時00分00秒 | エッセイ
      「祖母が老衰で亡くなりました。
      良くしてもらった祖母なのに、寂しくも悲しくもありません。
      近所に住んでいて、かわいがってもらいました。
      しかし、数年前に老人ホームに入ってからは、
      一度も会いに行きませんでした。
      再び祖母と対面したのは葬儀の時。
      でも、遺体に触ることをむしろ不快に感じてしまい、
      そそくさと逃げるように帰りました。涙も一度も出ません。
      ……悲しみがわかない私は異常なのでしょうか」
      そう書く一方で、「数年前に自死してしまったアイドルのことを思うと、
      いまだに涙が出ます」と、二つの死を重ね合わせ、
      自ら、「異常ではないか」と言うのである。
             
新聞の「人生案内」、つまり読者の相談コーナーに
20歳代の女性がこんなことを話していた。
これを読んで、ひどく寂しい思いに駆られた。
仮に僕が死んだ時、孫たちは悲しんでもくれず、
涙一滴流してはくれないのだろうか、と。
それではあまりにも切ないではないか。
僕の遺体にすがりついて、ワアワア泣いてほしい、と。

      でも、ちょっと待て。僕自身はどうだったか。
      祖父母、それに両親、あるいは兄や姉が亡くなった時、
      悲しい、寂しいと感じたか。そういう思いになっただろうか。
      いや、その記憶はない。涙も流さなかったはずだ。
      亡くなった瞬間、あるいは葬儀の時はそうだった。
      だとすれば、この女性を「何と冷たい人か」と責められるはずがない。
         
父や母、あるいは兄や姉の死に対して、
悲しいとも、寂しいとも思わず、
涙一滴さえ流さなかったのは確かだ。
だが、それらの人たちを忘れ去ってしまったのか。
      いや、違う。
      時がたち、今は皆、喜怒哀楽の思い出の中にいて、
      時に思い出しては無性に寂しく、あるいは悲しくなることがある。
      孫たちが泣いてはくれなくとも、思い出の中に居させてくれさえすれば、
      時々、思い出してくれさえすれば、それで十分でないか。
      自分にそう言い聞かせ、また悩みを打ち明けた若い女性に、
      「僕も同じだよ。異常ではないと思う」
      そう呟きながら、新聞をたたんだ。