Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

母さん

2022年09月29日 08時50分30秒 | 思い出の記


カーテンを開け、外に目を凝らすと霧雨であった。
まだ明けやらぬ6時少し前。おまけに雲に覆われた空は薄暗い。
霧雨は見えるか見えぬほど、音もなくあたりを包んでいた。
それでも庭木は濡れそぼり、しずくが葉っぱを転がり落ちている。
夏は去り、季節は移ろう。



そう言えば、あの日もこのような天気だった。

まだ小学生にもなっていなかった頃、八つ上の姉は
僕を抱きかかえるようにして一本の傘で霧雨を避けながら、
路面電車の停留所近くにあった一軒の家に僕を連れて行った。
出迎えたのは母だった。母はなぜ、
父や僕たち兄弟姉妹が暮らす家とは違うところに一人いるのだろう。
かすかな、たったこれだけの記憶で、小学生も高学年になると、
父と母は一時期、別居していたのだということが分かった。
ただ、どんな理由だったのか未だに知らない。
兄や姉たちが、「実はこんなことがあってね」などと
教えてくれるはずもなく、兄や姉にしても
寂しくて、悲しくて胸を痛めていたに違いない。
姉が僕を母さんの所に連れて行ったのは、
自分も母に会いたさに父には内緒で僕の手を引いたのではなかったのか。


思えば父と母はあまりにも境遇が違う者同士だったと思う。
父は官立の高等商業学校、今で言えば国立大学の経済学部の出身なのに、
対する母は、定かではないが尋常小学校、
あるいは高等小学校の出だったのではあるまいか。
仮に恋愛であったのであれば学歴は関係ないことだと言えなくもないが、
それでもどんな出会いであったのか想像するのは難しい。
また父方は天理教、母方はキリスト教だ。
宗教が違う者同士の結婚は、ややこしい障害がいろいろあったはずで、
二人が結婚した時には、父がキリスト教に転宗し、
母以上に熱心なキリスト教信者になっている。
その時、父には何の咎めもなかったのだろうか。
そう言えば、父方の祖父母はもちろん、その親族をほとんど知らない。
面識があったのは父の弟唯一人だった。

     

もう一つ。これは笑い話みたいなものだが、
父はまったくの下戸なのに、母方は酒豪の家系だ。
母もそうで、夕食時の食卓に杯が置かれるのは母の席だけだった。
母の兄や弟がよく我が家に遊びに来ていたが、
父は笑顔を作って出迎えたものの、酒席の長さに癖癖した表情を見せたりした。

そんな違い過ぎるとも思える二人が、
どのような縁があり結婚することになったのか。
そして二人の結婚生活には何の問題もなかったのであろうか。
僕には知りようのない父母の〝秘密〟である。

平成七年だったから、母が逝ってもう二十七年になる。
八十四歳だった。
母の葬儀の日の写真が、A4の紙を半分に折ったものよりやや小さい
角形7号の、茶の封筒の中にあった。
僕の若い頃のモノクロ写真が五十数枚、実に無造作に入っており、
葬儀の写真はその中に紛れ込んでいた。
この写真には、父はすでにない。
長男、次男、それに長女、次女、そして末っ子の僕、
五人の兄弟姉妹が並んで写っている。
僕の二つ違い、三男の兄だけがいない。
彼はすでに母より五年早く他界していた。
五十歳ちょっと手前の不幸だった。
一人欠けているとはいえ兄弟姉妹が一緒に写っているものは
おそらくこの一枚だけだろう。
母の葬儀というのに、なぜか皆笑顔である。

           

今、マリア像の横に置かれた写真の母も柔和な笑みを浮かべている。
生きていくことの辛さや悲しさとはおおよそ無縁と思える、
ぽっちゃりとしたかわいい顔だ。
さだまさしは『無縁坂』という曲の中で、
「(母には)悲しさや苦しさはきっとあったはず。
(でも、それらを) すべて暦に刻んで流してきたんだろう」
と歌っている。
母もそうではなかったのか。
父とは一時別居はしたものの、すべて暦に刻んで流し、
別れることなくいてくれた。
僕たち兄弟姉妹にとって、それは何よりの幸せであった。
二人は今、同じ墓の中で一緒に暮らしている。
仲良くしているだろうか。
「末っ子が余計な詮索はよしなさい」母が苦笑しているかも知れない。
            
          

母の晩年、五年ほどは病院暮らしだった。
脳梗塞から始まった。
症状は軽く、言葉もしっかりしていたし、
体もさほどのダメージを受けていなかったのだが、
どうしたことか入院中に転倒し、大腿骨を骨折してしまったのである。
年寄りが足腰を骨折すると、それが引き金となって
寝たきりになるとよく言われるが、その通りであった。

母を見舞ったある日。その日はちょうど昼食時だった。
歩けないのでそのままベッド上で食事をしようとしている。
母の側に寄り、ベッドの端に少しだけ尻を乗せた。
おかゆみたいな流動食、それをスプーンで母の口に運んでやった。
すると、それを見た看護師が「やめてください」と咎めるのである。
「なぜ?」と語気を強めた。ささやかな孝行を邪魔された思いだった。
「手助けすると、もう自分では食べようとしなくなりますよ」
……母の手を取り、そっとスプーンを握らせた。

他に悪いところはなかったが、日に日に衰えていくのが分かった。
おまけに認知症みたいな症状も出てきた。
病室に入り顔を見合わせると「遠いところをよく来てくれたね」と、
福岡から入院先の長崎まで高速道路で二時間かけてやって来た僕を
労ってくれるようなことを言うので安心したら、
その後の会話は誰と話しているのか、
まったく分からないものになってしまう。
唖然とし、そしてたまらず、「トイレへ」と飛び出すように
病室のドアを開けたとたんに涙が零れ落ちた。
「もっと見舞いに来てあげたらよいのに……」そう言う妻には、
「そうだね」と気のない返事を繰り返すだけ。
そんな母を見るのが忍びなかった。
何とか笑顔を戻し病室に入った。
すると、母の人差し指が僕の額の方へすーっと伸びてきた。
でも途中で力をなくした。ポトリと落ちるのと同時に、母は目を閉じた。 
それから一カ月ほど後だったろうか、
「おふくろの状況があまり良くない。
医者が状況を説明するらしいのでお前も来てくれ」長兄からの電話だった。
僕を待ち構えたように医師は、
右半分が真っ黒の母の頭部のレントゲン写真を見せた。
「そんな切ないものを見せないでほしい」心中そう叫んでみても、
医師は素知らぬふうに「一年後かもしれないし、明日かもしれません」
そう冷たく告げたのである。その悲しみは一週間後のことだった。

           

一歳になるかならないか、泣きじゃくる僕を母は膝に乗せ、
抱きしめるようにあやしている、あの写真はどこにあるのだろうか。
封筒の中にはなかった。
記憶に残る幼児期の写真は、あれだけだというのに
二度と見ることは出来ないのか。
おそらく、母の手元にあったに違いないと思うが、
亡くなった際、家財道具を整理するのに取り紛れてしまったのかもしれない。
あるいは母が胸に抱いて持っていったか。
少しばかりの寂しさはあるが、でも、あの写真の情景は、
八十歳となっても、母の温もりをしっかり感じさせてくれている。

少し大きくなった小学二年生の、ある真夏の昼下がり、
遊び疲れ倒れるように畳に寝そべった僕の傍らに座った母は、
今度はうちわで風を送りながらこう言った。
「子どもはね、親を選んで生まれてくるのだそうよ。あなたは私を選んでくれたんだね。本当にありがとう」
そして、こう続けた。
「ほれ、眉が下がっているよ。眉が下がっていたら男前が落ちるからね。
指を湿らせ、それで眉をぎゅっと上げなさい」

髭を剃ろうと鏡を覗き込むと、母がすーっと出てきて、
人差し指を眉に向かって伸ばしてくる。
鏡に映したわが顔をしげしげと見つめてみると、
確かに長く伸びた眉が二、三本あり、それらがたらりと垂れている。
シワ、シミに加えて目尻が下がり、おまけに眉が垂れてくると
人相はやっぱり老人そのものである。
小さい頃は、母に言われるままに指を湿らせ横に引くと、
眉は一文字に近くはなった。だが今はもう、あの頃とは違う。
同じようにやってみても、そうはいかない。
でも、母は今もしつこい。
「ほれ、ほれ」と人差し指を伸ばしてくる。
幼い日に戻り指先を舌で湿らせ、眉を横にきっと引いた。



婦唱夫随

2022年09月23日 06時00分00秒 | エッセイ


傘寿の年ともなって、肩肘張ったところでしようがない。
たとえば夫婦の間において「夫唱婦随」、
妻は夫の意見に従うべきだと威丈高に言ってみても、
現実にはそのように暮らしていけるはずがない。
結婚以来、衣食住すべてにおいて妻任せだった。
そのせいで、もはや〝妻離れ〟して暮らすことは難しくなっている。
年を取ると否応なしに「婦唱夫随」とならざるを得ないのだ。
とは言うものの、これが言うが易し、実に悩ましい。

        

日本経済新聞の小欄にこんな話が載っていた。
知人の結婚披露宴に呼ばれ、寄せ書きの色紙が回ってきた。
それで「夫唱婦随、婦唱夫随」と書いたところ、
隣の人が「いい言葉ですね」と褒めてくれたそうだ。
「亭主関白でもなく、カカア天下でもなく、
夫婦双方の話し合いで家庭を運営していくべきだ」
との思いを書いたのだが、この人にしても
「いかんせん、その実践は難しい」と言っている。
何せ、たいていの男は「夫唱婦随」の中に
プライドというものを隠し持っている。
「婦唱夫随」とは、そのプライドを捨てるに等しいのではないか。
そう思えば、「いかんせん、その実践は難しい」
ということになるのである。

ただ、「婦唱夫随」に策はある。
〝肩透かし〟という手だ。
相手が激しく攻め込んでくる。いったん、これに応戦はするが、
機を見て相手の攻めをするりとかわすのである。
当然、相手は前のめりになるが、
転んでしまう前にさっと手を差し出す。
すると、相手は土俵に手をつくことはなく
「まだ負けていない」ということにするのだ。
そして、自らのプライドを損なわない程度の
やんわりとした謝罪の言葉をさりげなく加える。
大切なのはさりげない「謝罪の言葉」だ。これを忘れてはいけない。

小競り合いは茶飯事のことだが、
若い時みたいにひと月もふた月も口を利かないといった長期戦、
あるいは〝武力衝突〟といったことはまったくなくなった。
もちろん、そうする体力もなくしているからだが、
〝肩透かし〟という手を身につけたことが大きい。
もちろん、これを身につけるには鍛錬がいる。時間もかかる。
子供たちが独立し、夫婦二人きりの生活になった日から、
その鍛錬は始まる。

       

ついでながら、子どもたちは「老いては子に従え」と偉そうだ。
こちらに「はい」、あちらに「はい、はい」と繰り返す日を送るのが
僕ら高齢者と言われる人たちであろう。

グラウンド・ゴルフ

2022年09月16日 10時04分00秒 | 日記


またゴルフをやり始めた。
6年ほど前になろうか、術前検査で腰部の圧迫骨折と診断され、
クラブもバッグもシューズもきれいさっぱり処分した。
実は後にこれは誤診だったことが分かったのだが、
いずれにしてもプレーした後は必ず腰が痛くなっていたのは確かで、
これは若い時の椎間板ヘルニアによるものであり、
無理することもあるまいと諦めたのだった。



さて、今度のゴルフはアイアンもパターもいらない。
ウッド1本で18ホールを回るのである。
改めて言うまでもないだろう。
そう、グラウンド・ゴルフである。
「ゲートボールやグラウンド・ゴルフなんて。あれは年寄りの遊び」
ほんの数年前までは、半ば蔑んでいた。
だが、よくよく考えれば自分も80歳の年寄りではないか。

ほぼ毎日早朝のウオーキングはやっている。
40分から50分、だいだい5000歩は歩いている。
ところが最近、単に歩くだけではなく、
何かゲーム性のあるものをやりたくなった。
そこで目が向いたのがグラウンド・ゴルフである。
しかも、車で10分足らずの所にパークゴルフ場がある。
平日だと用具代も含めて1ラウンド500円ですむのだ。



早速、妻を誘って初ラウンドとなった。
まだ心中には年寄りの遊びなどと見下したところがあったが、
実際にやってみると、これがなかなか。
スティックにきれいにヒットせず、トップしたりダフッたり。
右に行ったり左に行ったりで、うまくいかない。





それでも、満足、満足。
コース距離は18ホール712㍍しかないから、
歩数は大したことにはならないが、
随所のアップダウンにより、足腰に力が入り、
また普段はめったに使わない上半身を動かすなど
結構な運動量になる。
加えれば頭も使う。右に曲がったり、左に曲がったりしているし、
打ち上げ、打ち下しをどう攻めるか頭を使わなければ、
すぐにOBになってしまう。
グリーンも右傾斜、左傾斜、上り、下りありだ。
これらの戦略性に頭も使うのだ。いや、大げさではなくてだ。



今はちょっと暑いから、水分を多く取るなど
熱中症に気をつけないといけないが、コースは木々が豊かだから
同伴者がプレー中はその木陰に入っていればよい。
時々、木々の間から福岡空港を離陸した飛行機が姿を見せる。



また、コースの途中に咲く彼岸花の美しさが
疲れを癒してくれる。



 

初ラウンドはパー66を15オーバーの81で回った。
ちょっと不甲斐ないスコアではあるが、
これからぐんと伸ばしてみせる。
グラウンド・ゴルフ。ちょっとはまりそうだ。



あだ名

2022年09月14日 14時08分50秒 | エッセイ


下女の清がそう呼ぶ『坊っちゃん』の赴任先・四国の中学校には、
『狸(校長)』『赤シャツ(教頭)』『山嵐(数学教師)』
『野だいこ(赤シャツの腰ぎんちゃく)』『うらなり君(英語教師)』
といった面々がおり、
さらに花を添えるように『マドンナ(うらなり君の婚約者)』が登場する。

夏目漱石の「坊っちゃん」が、漱石の作品の中で
最も多くの愛読者を持っているとされるのは、
登場人物をあだ名で呼ぶなど人物描写の滑稽さ、
文章の徹頭徹尾の面白さであり、漱石作品としては他にはない
大衆性が多くの読者を引き付けるのだと評されている。



『ゴリカッパ』何ともひどいあだ名を、それも女性に対してつけたものだ。
高校の時の音楽教師・荒木先生には申し訳ないやら、お気の毒やら。
強く弁明しておくが、決して僕が付けたものではない。
いつの頃からかは知らないが先輩からずっと受け継がれてきたらしい。
そんなあだ名をつけられるほどの、
何と言うか〝お顔立ち〟ではないと思えるのに、
先輩たちはどこをどう見られて、こんなひどいあだ名にしたのだろう。
けしからぬことだ。そう憤ってみても、
「たかがあだ名のことじゃないか」と誰も相手にはしてくれない。

       

ある日の授業で、どういうことだったのか覚えてもいないが、
荒木先生は全員合唱する形でフランス国歌
『ラ・マルセイエーズ』を教え、歌わせた。
そして、だいたい歌えるようになったのを見計らい、
何を思われたのか知らないが「はい○○君、一人で歌ってみて」と
僕を名指ししたのである。もちろんどぎまぎするばかり。
そんな僕にはお構いなしに、『ゴリ……』、
いや荒木先生はピアノを弾き始めた。
「ええい、もう」まさに意を決して歌い始めた。

「アロン ザンファン ドゥ ラ パトリーエ」
たどたどしいフランス語で、どうにか一番を歌い終えた。
親友が「ヨッ」と声をかけ、拍手してくれ、
それにつられるようにパラパラと続いた。
以来、僕は荒木先生のお気に入りの生徒の一人になった。
廊下ですれ違うと、「おはよう、アロン君」と言うものだから、
近くを歩いていた女生徒二人が、「えっ」「何っ」顔を見合わせ、
すかさず「ぷっ」と吹き出した。

       
          「太陽がいっぱい」のアラン・ドロン

しばらくすると、僕は生徒の間で「アラン」と言われるようになった。
荒木先生が「アロン君」と言ったのを、
例の女生徒が「アラン君」と聞き違え、
「そう言えば○○君、アラン・ドロンにちょっぴり似てるわね」
なんてことで、校内に「アラン」と広めたらしい。
あの二枚目スターに! 
一人にんまりするより、恥ずかしさに身がすくむ思いだった。
それもこれも元はと言えば荒木先生のせい。
俯き加減に廊下を歩いていると、その先生が向こうからやってくる。
そして今度は、「おはよう、アラン君」と声をかけてきたのだった。

           

中学3年生の国語の授業。黒板の前には山下先生が立っていた。
教師になってまだ2、3年ほどの若き女性だった。
あだ名は『エス』。これは僕が名付け親だった。
『S』と書けば、なぜ、こんなあだ名にしたかおおよそ想像がつくはず。
はち切れんばかりの若い女性の姿、形を見れば、
ごく自然にこんなあだ名になる。
中学3年生、いかにも思春期の男の子が考えそうなやつだ。

また、この年頃の男の子というのは女性の気をひきたくて、
奇抜な行動をしたり、いたずらを仕掛けるものである。
ある日のこと。山下先生の授業が始まる前、
学級委員長だった僕はクラスの皆に
「今度の山下先生の授業では、何を聞かれても
一切返事をしないことにしよう」と提案した。
これに皆は「面白そうだ」と手を挙げてくれた。
女子までも「いいわね」と同調したのは、なぜなのか知らない。
ともかく満場一致のいたずら作戦となった。

          

授業が始まった。
先生が「ここはこうで、こういう意味です。●●君分かりますか」と尋ねる。
だが●●君、一言も返事をしない。
「分かりますか」再度聞かれてもだんまりを決めこんでいる。
仕方なく別の生徒に尋ねてみたが、これまた同じこと。
さすがに不審に思った山下先生。
「皆、どうしたんですか」教室には先生の声が響くばかりだった。
 
ベテランの先生だったら、そんな生徒の悪だくみなど簡単に見破り、
その張本人を前に引っ張り出すことなぞ造作もなかっただろう。
だが、何せ山下先生は純粋無垢な新米教師だ。
生徒の悪だくみにまんまと引っかかってしまったのである。
しまいにはどうしてよいのか分からず、しくしく泣き出してしまった。

若き女先生の涙──こうなるとは思いもしなかった。
この悪だくみの張本人だった僕はすぐさま白旗を挙げた。
立ち上がり、先生に向かって「Sorry   ごめんなさい」頭を下げた。
生徒が初めて口を開いた瞬間だった。



2022年09月12日 13時55分09秒 | 日記


明け初めんとする東の空。
陽はまさに山の頂から顔を出さんとして
一帯をオレンジ色に彩っている。



振り向けば、薄雲を纏ったほの白い明けの残月。

       

雲も夏の装いをやめ、薄く広がっている。



川岸の草むらには上流から運ばれてきた
彼岸花の赤がポツリ、ポツリ。


       
        

岸辺に飼い主さんと一緒にたたずむ
「乙女」ちゃんがこちらを向き
「秋がやってきましたね」と言っている。



欄干に止まったハト君も頭をくりくりさせながら
「空を流れる風も気持ちいいよ」とホーホー。



やがて陽は昇る。



           あのほの白い月は姿を消した